聴覚過敏その2

私の聴覚過敏について書く!!(2度目)
明後日の火曜、研究発表で、「私は聴覚過敏に興味があります〜」という前置きのもと、実験の話や分析の話をする予定。だけど、7分って短すぎて、なんで聴覚過敏に興味あるのかみたいな話できないから、ここで、書く。読んでくれたら嬉しいです!!!!


聴覚過敏・ミソフォニア とは

どちらも、音を過敏に受け取る感じ。定義が曖昧だから、あえてwikiから引用する。

【聴覚過敏】
通常の人が聞いてもなんとも感じないような比較的小さな音に対して、苦痛を感じる症状。

【ミソフォニア】
特定の音に対して否定的な感情(怒り、逃避反応、憎悪、嫌悪)が起こされる。音の大小とは無関係。

辞書的な説明はこんな感じ。私は聴覚過敏を人に説明する時、「黒板を爪でキーってやる音、耐え難いじゃん?あれが日常に沢山ある感じ」と言っている。大袈裟かもしれないけど。まぁ聴覚過敏の人は普通の感覚を知らないし、普通の人は聴覚過敏の感覚を知らなくて、両者は一個人内で排反なので、お互い、感覚を正確に伝えるのは不可能。

人生の軸 聴覚過敏

私の人生、意思決定のそばに、聴覚過敏はずっといた。聴覚過敏だと気づいたのは中学の頃。思い返せば、小学生の時からリコーダー合奏や音楽会練習で気分が悪くなったり(←これは聴覚過敏というより絶対音感のせいかも)、チャイムの音をうるさく感じていたりと、症状は出ていた。

中学の頃は、学校の古いテレビから鳴るモスキート音に悩まされたり、音楽の授業の雅楽の調律が低いのが気持ち悪くて退室したりしていた。(聴覚過敏と絶対音感が、悪い感じにかけ合わさっていた。)
あと男性の話し声の倍音が聞こえるようになってしまって、基音は普通に日本語だけど、倍音はドレミで聞こえていて、何を言ってるかわからなくなったりしていた。

高校は、心身ともに良くない時期だったのもあり、聴覚過敏が悪化した。モスキート音、サイレン、椅子を引きずる音、エアコンの音、身の回りの全てが敵だった。受験期、教室の真ん前のトイレを連日工事していて、毎日死にたいと思いながら授業を受けていた。何度も授業中に耐えきれずに泣き出した。
学校側も見かねて対応してくれて、本来教室じゃない建物に移動して授業を受けたりしていた。(半端ない量の移動教室の巻き添えにした8組文系14人、ごめんすぎる。)

普段の掃除は、私のクラスは配慮され、机を後ろに下げずに行っていた。(……とここまで書いて気づいた、もしかして上靴の地域だと掃除の仕方違う?私の地元は土足なので、机椅子全部後ろに下げて、ほうきで土を掃くのが当たり前だった。)大掃除は学校中のものを引きずる音でパニックになった。避難訓練もサイレンで号泣。私、災害にあったら死が確定なんだろうなとか思った。

長い自分語りになったが、とにかく、辛かった。そんな中で、私のような飛び抜けた才能のない人間が、唯一無二として社会に貢献できる方法があるとしたら、聴覚過敏の研究だと考えた。そして、藝大音環を目指した。ここで聴覚過敏を研究したいと思った。でも研究職として食べていくのは難しいだろうし、何より辛いことや嫌な音からは早く離れたいので、大学を出たら音からはスパッと離れようと思っていた。(今、就活で、揺らいでいるが。)

大学での研究

研究とか言えるほど大したことはしていないけれど、でも、全力で取り組んだ。聴覚過敏傾向が、音の大きさ評価や快・不快評価にどう影響するのか。とても楽しかったし、自分が本当に知りたいことを研究しているのでモチベーションも高かった。明後日の研究発表も、伝わりやすい発表目指して、がんばりたい。
来年も本気で研究して、悔いを残さないようやりきりたい。ずっと敵であった「音」たちの正体を暴き、少し仲間になってから、卒業したいと思う。 

プチ朗報

モスキート音が聞こえなくなってきた。この間同級生と道を歩いていた時、その人は聞こえたモスキート音が、私には聞こえなかった。
やっと、老いることができた。耳というアイデンティティを失うことにうっすらとした怖さはあるが、本当に嬉しかった。
数ヶ月前、高周波に苦しむ私に、ゼミの教授が声をかけてくれた。「早く年取れたらね、楽になれるんだけどね」と。すごく泣きそうになったのを覚えている。
モスキート音という、苦手な音のひとつが消えて、楽になれる日は近そうだ。


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