おだやかに、皐月
特に尖りたいという欲が強い方ではないと僕自身は思っているのだけれど、結果的に大いに他人と違うことをしていたり、それも自覚しているのだからよくわからない。
この書き出しの説明が必要な気がするのでそこから始めよう。
今月の振り返りをしようとPCを立ち上げながら、先月に一か月を振り返る記事を書いてからもう一月経ったんだなあと感じたのがあまりにも月並みな感じがしたので恥ずかしさすら覚えたという次第なのである。
だからと言って他人からありきたりだと揶揄されることにそれほど抵抗を感じるわけではないから冒頭の言い訳じみた書き出しになってしまったのである。
さて、今月の僕は実に普通だった。怖いくらい何もなかった。少なくとも僕自身はそう感じている。
ただこの、何もなかった、だの普通だっただのという状況が、実に、実に久しぶりなのであって、それはもう3年ぶりとか5年ぶりとかいう単位でひさしぶりだったので、最早普通と呼ぶことが逆に皮肉を言っているようなことになっている。
ところが、何もなくなかった今までがネガティブな要素だけで構成されていたわけではなくて、良くも悪くも僕なりには色々ありすぎた数年間だった。
忙しかった、などという表現は受け取る人によって甘えに聞こえたりするらしいので意図的に用いないでおこうと思ったのだけれど、でもやはり忙しかったのだ。
忙、という感じは「心」を「亡」くすと書くから言わない方が良いなどというアドバイスをいただいたこともあるが、僕には気持ちを正確に伝えるための術に一つの枷が付いてしまうだけな気がするのであまり考えないことにしよう。
何もなかった、とは言うものの、大型の連休があったわけで、その意味では他の月との変化はあったのかもしれないが、連休も比較的のんびり過ごすことにしていたし、その割に虚無感に苛まれることもなかったし、積極的にのんびりを楽しんだようなそんな休日であった。
自分なりには充実していたとしても目に見える変化や、今どきの所謂「映え」のある時間ではなかったから記事にしようとすると正直手こずってはいるのだけれど、その分ある程度腕が鳴るような気にもなっていて、気が付けば900字を既に超えている。締めるのにはちょうどいい頃合いである。
令和6年、僕の5月は凪いでいた。
小学生の作文風にいうと、たのしかったです!である。
では、また来月。