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前回の続きです

こんにちは 山田です。

前回、児童書について、つらつら書かせていただきました。
毎度のことですが、まあ、中身がない。

実はあれ、まるまる導入部、
落語でいえばマクラで終始したのです。

予定した展開・着地点は、まったく別のものでした。
しかしそれが、どうもしっくりこない。

まあ、思いつくまま書いてれば、
そのうちハズミもつくだろう、と
導入部分に手をつけたら、案外、書ける書ける。

しかしそこから先、本題に進める感覚が、
やっぱり出ません。

これはもう、組み合わせにムリがあるのでしょう。
結論に合わせて、始めからババンと変える必要アリです。

ところが、書き出しである導入部の方で、
気持ちが駆け出してしまいました。

楽しい。
楽しくなり過ぎて、
いまさら止める気が、どうにも起きないのです。

これはこれで良いか、という思いがよぎりました。
目にする方は、ごくごくごくごく、わずか。
今までだって、何かのタシになることを、
お届けできたわけでもない。

とはいえ、書いた文は完全に、「自分が楽しい」だけのもの。
さしたるテーマもない、独りよがりな雑文。
さすがに不調法かしら?

そんな葛藤がありつつ、
「ほかの人を差し置いて、まず自分が楽しい」
という感覚も、なかなか新鮮です。

そこで前回は、書けたものをそのまま出させていただき、
今回、その体験から考えたことをお届けすることにしました。

書くことで、気持ちにプラスの作用をもたらすものとして、
「日記」があります。

モヤモヤや、抱えている思いを、
言葉(文字)として表出することで、
気持ちを整理したり、スッキリする、
という効果が得られます。

また、いいこと日記のように、
日常の出来事に対する着眼点(受け止め方)や、
「いい」と自分が納得できることの幅を広げるのに、
役立つものもあります。

ですが私が経験したことは、
それらの効果とはちょっと違う気がします。
その感覚は、「プレイセラピー」に近いように思います。

子どもが、他の人の目(制限・規範・評価など)から自由になり、
すきなことをすきなように楽しみ、表現できる時間と空間。

私も、題材や言葉を、気の向くままに使って、書く。駆ける。
そのプロセスを楽しんでいました。
ご覧になる方のことを、しばらく忘れて。

ただ、私にとっての他の人の目は、
自分で勝手に想像したしばり、
全部ではないにしても、その比重は高いと思います。

そこは、大人によるリアルな制限の多い、
子どもにとっての他の人の目とは、
事情が違うかもしれません。

いずれにしても、好きなように楽しめる。
そんな機会を持つことは、こころの健康のために
とても大切で、役立つものだと思います。

みなさんにとっての、プレイセラピーになる時間は、
どんなものでしょうか。

<補足>
今回、ネット記事を書いた時の経験にからめて
プレイセラピーを引き合いに出しました。

プレイセラピーは自由に過ごせる時間、空間ですが、
物や人(セラピスト・本人)を乱暴に扱ったり、
傷つけてはいけない、という枠組は存在します。
そこは、ネットで何かを書く時のルールと同じです。

プレイセラピーを引き合いに出すことはそのまま、
枠組みの範囲で楽しむことを意識するものである、
という要素も念頭においています。

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