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程よいテキトーさ。

セラとぴあカウンセラーの市岡です。

私は数年前まで6年くらい仲間と一緒に岐阜県の中山間地で週末農をしている時期がありました。就労しよう!とかそういう意気込みのものではありませんでしたが、トラクターに乗ったり家庭菜園よりは規模もずっと大きく、自然豊かな土地で、最初のころは牛さんも2頭いました。

そんな自然の中での作業は、私に程よいテキトーさを求めてきます。

草を刈るにしても、畝を立てるにしても、種をまくにしても。
私はそんなにキッチリしたタイプではないけど、最初の頃このテキトーの塩梅がよく分からずにいました。

頭で考えるキッチリを目指すと結果、あまりよろしくない結果になります。
きっちりならなくて五感を働かせると、良いところにおさまります。

程よいテキトーさです。

キッチリやろうとしている時は、自分の中の<やった感>は満たされますが、<やった感>とその結果は比例しません。
テキトーにすると、<やった感>は満たされませんが、確実な手ごたえとともに良いものができて満たされるのです。

それは当たり前のことで、キッチリやろうとしている時はの<キッチリ>は自分の頭の中の想像でしかないわけです。
テキトーにやっている時は、自分以外の様々な働きに意識が向いて視野が広がります。

キッチリやろうとしている時は、他の要素(風や虫、土や微生物や太陽…などなど)にお任せできません。
テキトーにやれている時は、お任せする気満々です。

キッチリやろうとしている時は一人で歯車を回しているので、
疲れるし単調です。

テキトーにやる時は色々な力を借りるので、
効率よく且つ複雑に歯車が動きます。

キッチリやろうとすると距離感を取るのがなかなか難しいです。
テキトーさをもっていると、距離感がとりやすくモノゴトを俯瞰して観れるようになります。

程よいテキトーさはこんな感覚です。こんなことを自然から教えてもらっています。

私の頭の中の小さなキッチリにこだわらなくてもしていなくても、
いのちは答えてくれるのです。

もちろんデータを収集したり、お金のことだったり、キッチリさを求められることは日常生活ではたくさんあります。でも、すべてがキッチリである必要はないのです。

なぜなら、私たち自身も<いのち>の一つだからです。

キッチリ感とテキトー感。
もっと上手に使えるようになりたいもんです。

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