トゥルーエンドを目指す犬村小六が、「やがて恋するヴィヴィ・レイン」で描きたかったこと
犬村小六という作家が好きだ。
彼の小説に登場する人物には「無駄」がない。
悲劇にしろ、喜劇にしろ。主人公にせよ、脇役にせよ。
各々が自分の役割を演じて、ひとつの「歴史」を織り上げてゆく。
犬村小六の小説は、ひとりの人生ではなくひとつの歴史を紡ぎあげる。
映画「人生はシネマティック」のなかで、こんなセリフがある。
「映画や小説がどうして面白いか知っているか?人生と違って、すべてに意味があるからだよ」
映画や小説、マンガでは、主人公から端役にいたるまで、すべての人に「役割」がある。
ラブコメにおける主人公の親友は、主人公にヒロインへの恋心を自覚させるのに必要だし、クラスメイトのAくんも、主人公の学校生活を盛り上げるのに必要不可欠な存在だ。
戦争映画で真っ先に死んでゆく名もなき奴らも、「死んでいった仲間のために……」的なシーンに真実味を持たせるのに大事だし、それによって戦争の悲惨さも伝えられる。
当たり前なんだけれど、物語の登場人物は、その物語を成り立たせるのに必要だから存在する。
あくまで「人」がいて、物語が生まれる人生とは違う。
最初に「物語」があって、人が生まれるのだ。
最初に戻って、犬村小六の小説だけど、「やがて恋するヴィヴィ・レイン」が完結した。
書評で「途中から急展開」うんぬんで叩かれているけれど、犬村小六の「無駄のない」物語は中枢にしっかり根付いていたと思う。
主人公・ルカがシルフィと出会ったこと。ジェミニと兄弟のように過ごしたこと。
王女・フェニアと恋に落ちたこと、その恋が叶わなかったこと。
ルカが帝国と戦争をふっかけたこと、そこで歴史的な敗戦を味わったこと。
各巻、各シーンで登場するすべての人物たちの思惑や行動が絡まり合い、「恋するヴィヴィレイン」が生まれ、タイトルに隠された伏線が回収される。
世界が変わる、歴史が動く。
ひとつ言っておくと、犬村小六の小説はいわゆる「セカイ系」ではない。
ヒロインと主人公、たった2人の関係だけで世界が変わることはないし、むしろ2人は世界によって幸せな未来を奪われる。けれど、色々な人たち(それこそ脇役のような市民Aまで)に助けられ、力を借りて、今よりほんの少しマシな未来を目指す。
決してハッピーエンドにはしない。
犬村小六は、トゥルーエンドを好む作家なのだから。
いろいろ語っちゃったけれど、「やがて恋するヴィヴィ・レイン」最高でした!
今回はタイトルの伏線回収が見事。ルカがアステルと旅をして、アステルが消滅した先にヴィヴィ・レインの未来があったんですね。
ジェミニの「エデンを滅ぼす」「お前の夢を、おれはまだ覚えている」というセリフが最後に果たされるところも鳥肌ものでした。
犬村先生の小説は、シリーズ最後の方で登場人物たちが「ハッ」と各々の役割を自覚し、それを懸命に果たしていくところだと思います。
まさに物語があって、人ができる。そんな至極のエンターテインメント小説になっていました。