僕だけに見える神様
青い空が好きだ。電車に揺られてたどり着いた田舎の空を飽きるほど眺めている。
一人旅が好きだ。自分と向き合う時間は、他の誰かを想う時間でもある。
夜の海が好きだ。全ての光を飲み込んだような暗闇の海は夜空と溶け合い、他者的で、無関心で、自分の存在さえも無くなってしまったようだ。
自分という存在は、内的な自己認識と外的な他者認識で形作られる。他者を認識しない夜の海は、自己と外界の境界線を曖昧にして自分自身を飲み込んだ。目を瞑ってもそこには夜空と、そして自分自身と同一化された夜の海があった。思えば、大好きな海と一緒になりたいとずっと思っていた。
波の音を聞きながら、遅効性の毒みたいに自分の身体を蝕んでいく希死念慮を夜の海がいつも飲み込んでくれた。まるでそうすることが当たり前であるかのような顔をした海は、こんなちっぽけな世界よりもずっとずっと広かった。
もう今世では会えない人がいる。ずっとそばで自分のことを見ていてほしいと思った人だった。ふと空を眺めてみたり海を眺めてみたりするのは、そうすれば一番近くに居られる気がするからだ。
お別れは突然だった。悲しくて悲しくて、空虚で、後悔で、絶望で、それから夜が二回やってきたけど、私は布団をかぶって泣きっぱなしだった。
先生にいちばん見てほしかった。大学生活が楽しいこと、友達ができたこと、あなたの大切な宝物とそこで出会えたこと。今、元気でいること。誰かのために生きたくて、この仕事を選んだこと。まだまだ、自分が弱くて情けないこと。
もっとありがとうとごめんなさいを伝えていればという後悔で、泣いてしまうこと。
死別は別れではないと思う。その人とずっと生き続けることだから。中学生のときに友人をひとり亡くしてしまった。私がその手を掴んで離さなければ、と何度も思った。最期、体育会の練習のときにテントの日陰で会ったことを今でも覚えている。炎天下、車椅子、白い肌、細い腕、冷たい手。その全てが私に向けられた彼女のSOSだった。
それから数年後に自分も同じ病にかかった。私の手を掴んで離さない人が、あのときそばに居てくれたおかげで私は今を生きている。死ぬことばかり考えていても、繋がれた手を振り切れなかった。そうしてしてしまえば、その人を一生後悔させることを私は誰よりも分かっていた。
自分はなぜ生かされているのかを考える。あのとき、神様にずっと死ねと言われているような幻覚をよく見ていた。霧がかったような鈍い思考の中で、生きたいという生存本能を消したいと強く願っていたように思う。それでも死ねなかったのは、全ての巡り合わせの結果だった。
何のために生かされているのか、分からなくなって泣いてしまう夜がある。ある種のサバイバーズギルトのようなものにずっと苦しめられている。まだ、ひとりで生きていくにはずっとずっと弱いのに、大切な人はいなくなってしまう。
でも、あのとき自分を苦しめた怖い神様はもういなくて、もっともっと優しくてあたたかい存在がずっとそばで見ていてくれているような気がしている。見ていてほしい。もっと近くで、もっとそばで。
海よりも空よりも。
だから、いつか、虹の橋を渡った先で、よくがんばったねって言ってほしい。
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