音楽と言語的相対論

 高校二年生、16歳で社会というレールから運悪くも脱輪してしまい、大学を卒業する2024年3月まで中卒として生きてきました。一般的なレールから脱輪してしまったので、仕方なく自分でレールを敷き直してああでもないこうでもないと一人でぶつぶつと自分の人生を一から作り上げてきました。一般の対義語を辞書で引いてみると、特殊、特異などと出てきます。特殊な人生、特異な人間。主観的に人生を評価するならば、特別そういったこともないのですが、客観的に自分を評価されてみると、実際変わってるねと言われるのが普通でした。

 高校二年生で高校を中退し、レールを勢いよく脱輪してしまってから最初の社会復帰は、大学生になることでした。それはそれは怖かったことを覚えています。周りの大人たちも育児放棄されて人の手で育てられたゴリラをジャングルに返すときみたいな顔で息を呑んで見守ってくれていた気がします。しかし、幸運にもコロナ禍という混乱に乗じて自分という人間の特異性をうまく適合させていくことができ、あらゆる心配は杞憂に終わりました。でもそれも今思えば、軽音学部という特異なコミュニティと自分自身の特殊さとの親和性が高かっただけのような気がします。

 となると、本当の社会復帰は社会人として会社勤め人(かいしゃづとめびと)をすることになったここ一年弱なのではないかなと思うのです。この一年で私は社会一般的とは何かということをたくさん学びました。社会一般的な人は、音楽や文学に救いを求めたり、自分と向き合うために一人で旅に出たり、こんなふうに文章を書いたりしないのです。じゃあ何をしているのかと言うと、それはまだ分かりません。多分休みの日は友達と出掛けたり、飲みに行ったりするのだと思います。自分が変わっている方の人間だと自覚したとき、それはなぜかを考えました。なぜ、音楽を愛しているのか。なぜ、お金と時間を使ってライブに足を運ぶのか。なぜ、自問自答で言葉が溢れ出して止まらず頭の中で自分が喋り続けているのが邪魔で眠れない夜があるのか。

 言語は思考を規定する、という言葉があります。ジョージオーウェルの1984でも取り上げられている言語的相対論のひとつです。はじめてこの概念に触れたとき、腹の底が冷えるような恐怖を感じたのを覚えています。ヤバい、エモい、キモいなどの若者言葉に代表される守備範囲の広い汎用的な言葉を使い続ければ、いずれ言葉で形容することの出来なくなった感情は失われていくのです。自分の感情を言葉にすることが出来なくなれば、人々はその感情を知覚することができずに失ってしまう。

 様々な音楽に触れていると新しい感情に出会えることがあります。今まで言葉に出来なかった感情を音楽が代弁してくれることで、すとん、と心に落ちてくる瞬間があります。そうした感情を自分の手に受け取って自分の中で解釈してみたり、眺めてみたり、大切にしてみたりするのです。言語が思考を規定するというならば、音楽は何よりも自由で在り続けるものです。

 大好きな言葉に、Sense of Wonderという言葉があります。しっくりとくる和訳はないですが、美しいものをみて感嘆とする気持ちを感じることのできる心の機微、といった意味です。なんとなく日常の何気ない幸せを感じることのできる感性といった意味にも思えます。私はこの言葉に出会ったとき、自分の中にあるSense of Wonderという感性がすごくすごく大切に思えて切なくなりました。ずっと大切に心の奥にしまっておきたいと思いました。

 この言葉も音楽が出会わせてくれたものです。こういった瞬間が忘れられないからこそ、私は音楽が好きなんだと思います。これからも色んな感情に出会いたい。色んな景色が見たい。言語が思考を規定するのであれば、音楽がきっと私の世界を広げてくれるはずだと思うのです。窮屈なこの時代に、唯一の光であると思うのです。

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