【深夜の独り言】欲望と大義名分 2024.2.28
今日は欲望と大義名分について。
「私は○○がしたい!」これは前者
「みんなのために!△△のために!」これは後者。
では、
「私は△△のために○○がしたい!」
これはどっちなんでしょうか。
そんなことをぐるぐるぐるぐる考えていました。
私たちがただの生き物ならば、ひたすら欲に向かって動くわけですが、多くの人は学校を出て、仕事をするのが一般的になっています。寝るだけ食べるだけのヒトなんて特別な理由がない場合、ほとんどいない。
食欲性欲睡眠欲、これがすべて満たされてもなお満たされないのが人間で、みんなそれぞれ満たされない何かを埋めることを必死にやっているのだと思います。
例えば快適な寝場所作りのために温かい布団が欲しいというのは、より動物的な欲に近いことがなんとなくわかるはず。
温かい布団を手に入れるためのお金を得たい、ふとん屋さんに行きたい、そのお金を得るために仕事をしたい、こう考えると人間の社会的活動はすべて自己の欲から派生した欲望あるいは自己の欲を満たすための手段になるのだと思います。
このことから大義名分とは、掲げることであたかも誰かのためになっているような雰囲気を出すことができますが、中身はそうではないことがわかってきます。
特に「私がこんな思いをしてきたから、これからの人にはこんな思いをしてほしくない」と新たに何らかのアクションを起こしている人がいたとしたら、それは紛れもないヒトとしての欲求を、満たされなかった自分の欲望を、根源的に満たし直す行為にほかなりません。
誰かのためにという聞こえのいい形をとっていたとしても、それが自ら選択してとった行為なら、それは誰よりも自分のためであり、大義名分とは掲げるだけのものとなってしまうのだと思います。聞いている人には、そこまで自分の状況に立てる人もおらず、いいことをしてる風に聞こえてしまうのです。
誰がどんなことに課題感を持ってソリューション提供を目指していても、それが世のためヒトのためだと言えることであったとしても、少なくとも私は、根源には自分の欲があるのだと思います。
私は農業で物と労働力の交換の仕組みが成り立てば面白い!と思って日々活動をしておりますが、それは後に私自身の農業を助ける手段となりえます。
面白い等の感情にもっともっと目を向けると、そこにはできたりできなかったり、進歩したり後退したり、悩み苦しみ諸々を経て、暗いトンネルの中で少しずつ光の方に近づいている感覚のことなのだと思います。
このことは私たちがヒトであるということ、生物的な欲求だけでは満たされないなんとも愚かな存在であるということの証明なのだと思います。人間ではなく、生き物として生きていくなら、山奥に1人ひっそり棲むしかありません。
持てるものをすべて手放して。あなたにはそれガできますか。
ヒトとしての愚かさを受け入れて、私は今日もトンネルの中、歩みを進めるのでした