おいる

昨日の夜に無性に天下一品を食べたくなった。天下一品ってそういうものだ。
天下一品とYouTubeの検索欄に入れ、様々な人が自分なりの食べ方を紹介する動画を観る。
天下一品を食べたい、という欲がムクムクと膨らんでいく。
目を覚ましたら天下一品に行こう。 そう思いながら枕に頭を預ける。

目を覚ます。 体はまだ天下一品を求めていた、というよりは脳が求めていた。
自転車を走らせ、自宅から10分ほどの場所にある天下一品に辿り着く。
イメージはもう出来上がっている。 あとはそのイメージに自分が近づくだけだ。
清掃の行き届いた扉を開くと、天下一品の香りが鼻腔を刺激した。

カウンターに案内をされメニューに目を落とす。
注文の品はすでに決まっているのだが、悩んでいるふりをしてメニューに目を滑らせる。 この店舗は他店舗に比べメニュー数が豊富なようだ。
一通り商品に目を通した後店員を呼び、合言葉のようにオーダーをする。
唐揚げ定食、こってり、麺固め、ねぎ別皿。

料理が出来上がる間、店内BGMに耳を傾ける。懐メロとも言える90年代のJ-popが響き渡っていた。
糖質、脂質、塩分、カロリー。どれも一食の中で摂取が許される範囲を超えていることだろう、だが。 今日はそれに目をつむり天下一品に来たのだ。
音楽も相まって、10代の頃に戻ったような感覚だった

ほどなくして、お盆に載せられ注文の品がやってきた。 眼前に広がる光景は壮観で、どこが郷愁すら感じられた。
天下一品を口にするのは何年ぶりだろうか。
粒子の荒い乳白色のスープは、視覚だけでもその濃度が伝わってくる。
一人静かに両の手を合わせ、まずはレンゲをその乳白色に沈める。

心地よい重みをたたえたスープをすくいあげ、口元だけですする。
「久しぶり」
「久しぶり」
「元気だった?」
「まあまあかな」
「相変わらずだね」
「そっちこそ」
旧友との再会に似たものがあった。
離れていた期間があってもすぐ分かり合える。
天下一品の味が味蕾を通じ全身に駆け巡っていく。

そこからは早かった。
麺、叉焼、白米、唐揚げを口に運んではスープで流し込んでいく。 どの食材も生まれは違うが、まるで初めからここにあったかのように調和している。
満足だ。
青写真通りに箸を進めていく、だが。
理想は上手くいかないからこそ理想なのだ。
箸が止まるのも、また早かった。

確かに美味いと感じる、感じていた。 それなのに体が動いてくれようとしない。
体内に流し込んでいたドロドロのスープがコンクリートのように固まり、身体の自由を奪っているかのようだ。
店内のBGMがいやに頭に響く。 十数年前に流行った曲だ。
懐かしい、と感じる僕は紛れもなく三十四歳だった。

どうにか水で全てを流し込んだが、水に流すような事実ではなかった。
重くなった体を支配しているのは満腹感と無力感だ。
来店した時の半分にも満たない歩幅で店をあとにする。
相変わらず猛暑日は続いているが、日差しは以前より柔らかくなっていた。

路面には蝉が音もなく横たわっていた。


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