博奕打ちと牛馬商と中古車販売
中世では、人の集まる三日市、六斎市などの市には、賭博を生業とする博労{ばくろう}が、双六で客と金品を賭けて娯楽を提供しました。「東北院職人歌合」には、客に負けたのか、裸の博労が描かれています。
また、『太平記』には、支配者である大名たちが、闘茶で金品を賭けて興じていたことが記されています。
このように、当時は博奕が禁じられてはいませんでした。博奕が禁じられるのは、どうやら戦国時代に入ってからのようです。
禁じるのは、領主ではなく、村の中の掟においてでした。これを地下掟と言い、畿内で発達する自治的な村落である惣村で定められました。
この地下掟で、博奕は作荒らしの盗みとともにかたく禁じられました(註1)。
当時、年貢は村請でした。領主は、年貢の台帳の管理すらしていませんでした(註2)。村で請ける以上、責任をもって納めなければなりません。
よって、誰かが未進(未納)した場合、村の誰かが補わなければなりません。そのために、連帯責任を負う五人組が出来ました。
それでも、人の未進は迷惑です。未進の原因の一つに、博奕狂いがあったため、それを禁じたのでしょう。
近世以降も、村落で博奕は禁止されました。でもそれは、あくまで本百姓のみです。
宿場町では、宿場制度の維持のため、公用の荷物運びの人足の確保が求められました。その手段として、人足小屋に賭場が開かれました。昨今のカジノ構想同様、博奕は人集めになり得るのです。
この宿場人足は、近郷の本百姓や無高百姓たちの子息ですが、後継ぎではなくて、養子先も奉公先も無い次男以下でした。つまり、彼らは本百姓の子弟であっても、村を出れば無高なので本百姓というわけではありません。
次男以下が家にいても、その労働力として使われるだけで、もちろん賃金は貰えません。そんな彼らが宿場人足になれば、その日当はすべて自らのものとして自由に使えました。
宿場人足たちは、宿場に設けられた人足小屋で寝起きしました。そこでは仕事終わりに盆が開きました。
そして、博奕に負ければ、次の日は働きに出ました。勝てば次の日は、酒を飲んでごろごろして過ごしました(註3)。まさに夢のような生活です。
この賭場を鉄火場と言い、やがてこれを縄張りにする人物が博奕打ちの一家を構えるようになりました。
そんな博奕打ちですが、博労とも呼ばれ牛馬の商いもしました。そのためか「馬喰」とも書きます。
売り買いをすると言っても、自らは牛馬を育てません(註4)。牛を扱うなら、まず子牛を手に入れ、牛を飼っている農家を回ります。そして、博労の子牛とその農家の成牛との交換を持ち掛けます。
農家からすれば、成牛はやがて老いるので、いずれは若い牛に買い替えなければいけません。もし、牛が老いて死ねば、タダでエタに持って行かれます。お金にはなりません。死んでから新たに若い牛を買うとなれば、当たり前ですがお金が掛かります。
ところが、博労と交換すれば、しばらくは子牛なので成牛ほどの働きは期待できませんが、買い替えるお金は掛かりません。食うに困らぬ農家ですが、まとまった現金は年一回しか入りません。それなので、物々交換の方が助かります。
反対に、博労からすれば、子牛を育てる手間を掛けずに成牛が手に入ります。これを牛や馬の市へ引き、成牛を売ってまた子牛を仕入れ、利ザヤを求めます。
こうして、農家と博労の取引が成り立ちます。
さて、子牛にもいろいろです。痩せた子牛は、誰も交換しません。それなので、そういう子牛は、山奥まで行って交換相手を探しました。
山奥の田舎者なら、目が肥えていないため、痩せた子牛でも良い牛になると言えば信じて交換に応じました。
人を見て、手八丁口八丁に売り込むさまは、現在の中古車販売に似ています。
牛馬が立派に育つかは未来のことなので分かりません。同様に中古車は、その状態が良いのか悪いのかは、分解しなければ分かりません。
ですが全部分解して調べると、工賃が嵩んでしまい新車価格を上回るでしょう。それなので、年式や走行距離、疵、色あせ、エンジン音などで見分けますが、素人には難しいです。
一部の中古車店では、安い店頭価格で誘き寄せ、見積価格にいろいろな手数料を上乗せし、車のことなど分からない素人を手玉に取って商います。
こういう商売は、口が上手いだけではなく、人を見るのが上手でなければ出来ません。初見の相手と、二言三言交わすうちに、目が肥えているのかを見抜かなければいけません。それが出来る人というのは、恐らく、頭の回転と決断が早い人だと思います。
博労が、牛馬の商いをしながら博奕を打つのも、人を見るのが上手くなくてはならず、よってその適正が上述のごとくだからでしょう。
さて、博奕の勝ち負けの確率は、丁半であれば半々です。それにもかかわらず勝つには、負け出したら粘らずにすぐに止め、勝ったら負け始める前に手を引く決断力が求められます。
あるいは、勝って帰ろうとして、他の者に、
「おい、勝ち逃げするのかよ」
などと絡まれたら、上手く返して立ち去る口の上手さも必要です。また、人を見るのが上手ければ、席を立つ良いタイミングも計ることが出来るでしょう。このように、博奕の才能と牛馬の商いは、双方の適性が共通しています。
やはり仕事は、今も昔も向き不向きが大事なのです。
ちなみに、先にあげた誰も引き取らない痩せた子牛をつかまされた山奥の農家ですが、数年後博労が恐る恐る尋ねて行くと、立派な成牛に育て上げていたそうです。そして、博労に感謝し、「また頼むよ」と言っていたそうです。
その博労は、これが百姓の凄さだと感心しました。怠けずにコツコツと積み重ねて、痩せた牛も田畑も育て上げる。上手く立ち回る才覚や口先が無くても、多くの百姓たちはこうした生き方で少しずつ豊かさを得ていったのでしょう。
註釈
(1)藤木久志『戦国の作法』67、72ページ。
(2)同書172から180ページ。
(3)『国史大辞典』(吉川弘文館)「宿場人足」の項目。