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年貢の村請は豊かさの源

日本人は、政府が怠慢であっても、文句を言わずにきっちりと税金を納める奇特な国民であり、欧米ではありえない、などと言う人がいます。そのわけは、戦時中に国家総動員のために始まった源泉徴収の制度のためと言われています。

また、幕藩体制期、つまり江戸時代に、検地で所得を把握された農民が、毎年せっせと年貢を納めていた名残りと言う人もいます。

確かに年貢はしっかりと納めていました。

その納め方は、村請と言って、徴税から納税までを村で責任をもって執り行う仕方でした。これは、中世から始まったと言われています。

もし、一人不作や怠け、夜逃げなどで誰かが未進となった場合、村内の五人組という連帯責任の組で不足分を補いました。この五人組は、畿内の惣村で始まった制度で、領主が定めたものではありません。

惣村とは、自らを律する地下掟という法を持ち、それを自らの責任で行使する(地下検断)自治的な共同体です。

また村とは、地縁的な共同体ですが、稲作を主とする農業の同業者組合でもあります。生業の王様である稲作は、年貢の主たる品目であるため、その地縁的な同業者組合で納税を請け負うのは合理的です。

村請以前はよく分からないのですが、どうやら徴税請負人がいたようです。この徴税請負人は、海外に例が多いです。

彼らは、多くの場合、領主が決めた税額を納めれば、余計に取った分を我が物に出来るという特権を持っていました。そのため、民の税負担は多くなりました。

ところが、村請のように自分たちで納税を請け負う場合、間にあって中抜きをする者がおりません。

しかも、戦国時代以前までは、年貢の台帳は村が管理しました。領主側も同じ台帳を管理するようになるのは、江戸時代以降で、織豊期の太閤検地が契機でしょう。年貢に関わる事務も、主立った百姓たちが領主の役所へ出向いて執り行いました。

このように、戦国時代以前の領主は、何から何まで村の百姓たちに頼っていました。

そんな百姓たちは、先例を重んじました。先例主義というと、現在は役所を批判する際に出る言葉ですが、昔は百姓たちの防御の言葉でした。

反対に、領主やその臣下で民政に当たる者は、その時々の必要や思い付きで物事を行おうとします。

そんな彼らに対し、百姓たちは、年貢も先例を守るべきであり、新たな課役は新儀と言って不法な事だと訴えました。しかも、徴税は百姓たちに頼っていますので、増税が難しくなりました。こうして、領主による収奪が抑えられた分、民の側に富が蓄積されました。

明治時代になって、殖産興業のために多額の投資が必要でした。ところが、政府は、財政が逼迫していました。

そこで、民間の資金を活用したのですが、これが出来たのは民の側に富が蓄えられていたからです。

海外の例を見ると、民が貧しい国ほど、発展が遅れます。それを補うために外資に頼るのですが、アメリカの通貨政策や国際情勢、世界経済の好不況の影響を受けやすく、発展を持続させるのが難しいです。

年貢の村請という制度は、五人組などを設けており、一見すると民の桎梏に見えますが、その手枷足枷は、むしろ安易に増税の出来ない領主の側にはめられているのでした。

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