第2話 苗字から先祖は分からない
図書館に行けば、参考図書のコーナーに、
「姓氏大辞典」
など、苗字の由来が記された事典類があります。古代氏族や公家、大名などの来歴を知るにはたいへん重宝します。
ですが、多くの人々の先祖の調査には役に立ちません。なぜなら、多くの人々は、権門勢家や名門の子孫ではないからです。
江戸時代、支配層である侍身分は、当時の全人口の1割にも満たない数でした。
しかも、この侍の人口の中には、徒士{かち}のみならず、足軽や若党も含んでいます。彼らは、戦時、馬に乗ることの許されぬ軽輩です。
江戸時代の足軽や若党は、年季奉公の者もおり、百姓身分の出身者も少なくありません。
一方、徒士の先祖を辿れば、戦国時代の足軽で、当時の百姓身分のあぶれ者の出です(註1)。
給人クラスですら、戦国時代は地侍で、これは軍役を除けば、名主{みょうしゅ}と呼ばれた有力農民と同じです。
彼らが、人口の一割にも満たない侍身分の大半を占めています。
つまり、「姓氏大辞典」に載るような、臣籍降下した皇族や源平藤橘などの血筋に連なる正真正銘の名門は、ごくわずかしかいないのです。
もちろん、苗字の由来は分かります。
伊藤、加藤、斎藤などの何藤さんは、藤原氏に由来する苗字です。ですが、だからといって、彼らのすべてが、大織冠こと中臣鎌足や淡海公(藤原不比等)の子孫というわけではありません。
日本社会は、他人の子を自身の子とすることが出来る社会です。隣国の中国や朝鮮とは異なります。かつては、相続権を持つ養子に対し、そうではない猶子というものもありました。
後白河法皇の院の近臣、西光法師は、阿波国の麻植氏の出ですが、同じく院の近臣の藤原家成の養子となりました。そのため、西光法師の子の師経は藤原姓を称し、近藤という苗字を名乗りました。
また、臣下や配下の外様に対し、苗字を与えて一族に準えて結束を図るということも盛んに行われました。
守護代として佐渡国へ入部した本間氏が良い例で、在地の土豪に苗字を与えたところ、佐渡ヶ島は本間だらけになりました。
徳川家康の腹心だった大久保長安は、もとは大蔵という苗字の猿楽師でした。同じく徳川家臣で寄親の大久保忠隣の与力となった際、大久保姓を賜り改名しました。
また、征夷大将軍となった徳川氏は、毛利家などの外様大名に対し、松平姓を下賜しました。
百姓身分でも同様のことが行われました。
戦国時代から近世初頭にかけて、それまで下人・所従として召し使われていた者たちが、本百姓として独立して行きました。この際、彼らは、もともとの主人の別家となるか、あるいは分家という扱いになりました。
時代が下り、小作人や使用人だった者が、田畑を買うなどして独立しても同様でした。
さらに、明治時代になって、苗字を付けなければならなくなると、小作人の多くは主人の苗字をもらいました。商家の場合も同様です。
ただし、自身の出自が悪くなければ、実家の苗字を用いました。
ひとつの集落に、特定の苗字が多いのは、すべてが次男以下の分家というわけではありません。上述のような、独立した使用人や小作人も含んでいるのです。
それなので、同じ苗字ばかりといっても遺伝子的には多様なのです。
以上のことから、苗字の由来は、確かに源平藤橘などの名門であっても、もらった可能性が高く、血筋までは高貴とは限らないのです。
ですが、農家であっても源平藤橘の名門につながる場合も無いわけではありません。
平安時代の蔭位の制は、名門勢家に有利な制度でした。それでも、親が高位に至らぬまま早死にしてしまうと、その忘れ形見は高位への出世が難しくなります。こうして、貴公子の没落が起こります。
彼らが、都での出世を諦めて地方へ下り、残った財で荒れ地を大規模に開墾して大名田堵となり、時代が下るにつれて分割相続でそれぞれが在地の名主{みょうしゅ}(地主)となり、近世の本百姓に至る家系もあるかも知れません。
また、推測ではなくとも、源平藤橘を称す国人領主クラスの武士が、戦国期から近世初頭にかけて所領を失い、帰農したという由緒を持つ村役人や豪農の例もあります(伊予国の土居氏、山城国の川島氏など)。
名門に連なるかの真偽は、十把一絡げに苗字だけで判断は出来ません。い伝えもあるとは限りませんし、そもそもそれが正しいとは限りません。
やはり、実際に史料を探し確かめて初めて、本当の先祖のことが分かるのです。
註釈
註1 足軽などの素性については、藤木久志『雑兵たちの戦場』に詳しい。
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