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第11話 百姓は行政の主体

先祖を調べても、どうせ百姓なのだから調べる価値は無い、と思うのは誤りです。なぜなら、百姓は国の礎だからです。

何をもって礎と言うのかですが、決して、せっせと年貢を納め、支配者を支えて来たからという消極的なわけではありません。

むしろ各々が他者に働き掛け、互いに取り決めをし、積極的に動いて社会を築き、世の中が良くなるように努めて来たからです。

村の内にあっては、村請で徴税と納税を請け負い、その連帯責任のために五人組を設け、また結い(共同作業)を組織して負担の偏りを防ぎました。

外にあっては、ときには周りの村々と争うことがあっても、彼らと話し合って入会地を定め、水利慣行を取り決めて円滑な地域社会の運営を行いました。領主の役割は、話し合いが上手く行かなかった時の調停です。

戦国大名や織豊政権は、領国経営の発展のために街道や宿場の整備を行いましたが、これを実施したのは、街道沿いの村や町の主立った百姓身分たちでした。この時に定められた様々な掟は、現在の旅客運送業への規制につながっています。

つまり、百姓は行政の主体として、今日につながる社会を築いて来ました。

現在、欧米由来の統治機構を採用している日本では、立法、司法、行政の三権は憲法上分立しています。反対に、前近代は支配者が三権を有していたと言われています。

ですが、だからと言って、支配者がすべてを定め、行い、裁いていたわけではありません。

中世以来、支配者の多くは武士です。彼らは戦いで死ぬために生れて来た者たちであり、そのために日々武術の鍛錬に勤しみました。そんなマッチョな彼らは、脳みそも筋肉かと思われるほど、行政実務に通じた人材はほとんどいませんでした。

諸藩で様々な役職があっても、ほとんどは番頭や組頭などの勤番方で、民政を預かる役職は少ないです。しかも、その格は低く、代官は徒士の格の者が充てられ、代官の配下にいたっては、一代限りの足軽に毛が生えたような与力、同心などの軽輩が担っていました。

しかも、江戸時代以前には、武士などの領主は、年貢の台帳の管理すらしていませんでした(註1)。年貢は村請であり、その管理はすべて百姓が村ごとに行っていました。江戸時代になると、領主も年貢の台帳を持つようになります。それでも領主の仕事は、年貢を受け取った際に、受取証を発給するだけでした。

例えば江戸時代の越後国蒲原郡水原の代官は、約7万石の御料(幕府領)の村々を支配していました。ちなみに、代官所とは代官の支配地のことで、代官の役所は陣屋と言いました。

仮に一ヶ村当たり500石として、七万石なら140ヶ村あることになります。人口は、上納(年貢)は考えず、一人が年間に食する米を1石とすると、7万石なら7万人と推計出来ます。

ところが、その陣屋の人員は、代官1人と手代8人です。他に足軽と中間がいますが、足軽は警固、中間は雑用が仕事で民政には関わりません。

現在、水原代官所跡のある阿賀野市は人口が4万人、その一般行政職員は260人です。人口一万人当たりの職員数は、65人です。

これに対して、代官を含めて9人で足りるのかと思うのですが、他に支配の村々の庄屋が出頭して業務を行いました。

また、この代官手代8人の内、刑事の業務に当たる人数は分かりませんが、半分としても4人だけです。ですが、それでも間に合います。なぜなら、警察業務も村々の百姓衆の役目だからです。つまり、泥棒は自分たちで捕まえます。

水原の北にある中条町は、北国海道の宿場町です。文化11(1814)年5月24日の朝、荒川の南側と胎内川の北側にある岩船郡と北蒲原郡の村々に、落とし文や張り紙がなされたことを発端として、大規模な打ちこわしが起きました(文化十一年岩船蒲原両郡騒動)。最大で5000人が加わったと言われます。

中条町は胎内川の南にあり、落とし文はありませんでしたが、その日の夜に両郡の境にある飯出野という入会地に大勢の百姓衆が集まっているという知らせが入りました。

中条町には、領主の役所はありません。このとき、町年寄以下の町役人たちは、同町の目明しや虚無僧を遣わして、打ちこわしの様子を探らせています(註2)。このことから、中条町が目明しを抱えていたことが分かります。人の往来が多い宿場町なので、盗難が多いのでしょう。さらにこの虚無僧は、中条町の町人でしょう。

この打ちこわしの鎮圧に積極的に当たるのは、出雲崎陣屋元締め岡雄左衛門と郷手代大塚万右衛門(註3)の二人に率いられた中条町とその近郷の村役人たちや百姓衆でした。彼らは、騒立ちの者たちと紛れぬよう、髷に短冊状の紙を結び付けて捕り物に当たりました。

また、水原陣屋では、手代富沢寛蔵と佐々木村庄屋の息子清次、平林村庄屋哲五郎が騒立ちの者たちに立ちはだかり説得に当たりました。その際、清次は自宅を打ちこわされますが、その鎮圧後の吟味では、佐々木村の者たちとともに村々を回って打ちこわしに加わった者たちを召し取っています。

荒川の北にある村上藩では、郡奉行と町奉行に率いられた物頭と足軽が打ちこわしの百姓衆に対し威嚇射撃をしますが、あくまで荒川を越えさせないための出張りでした(註4)。

このように、百姓衆の打ちこわしを鎮圧するのは、同じ百姓衆なのです。侍が出て来ても、せいぜい物頭に率いられた足軽たちに過ぎません。治安の維持もまた、百姓衆の役割なのです。

また、火消しは鳶職の役目です。町や村のため、命を惜しまず働く彼らは一目置かれる存在で、花形の職業でした。

他にも、宿場や大河の渡しの管理運営も、百姓身分が行いました。

このように、百姓身分は、社会の根幹を担って来ました。言い換えれば、今日の日本の礎を築いて来たのです。英雄だとか志士たちが、どんなに抽象的な国家論を論おうと、あるいは欧米の諸制度の良いとこ取りに努めようとも、社会にそれを実現する礎が無くては、実現は出来ません。

歴史を語る時に、人物にばかり着目する人がいます。どうも作家に多いように思われます。彼らは、あの時にこの人物が出なければ今の日本は無かった、などと語りますが、その人物が出なければ、他の人がやるのです。むしろ物事の成就は、社会の成熟が前提なのであり、その社会を築いたのが、我々の先祖の百姓衆なのです。

もちろんそれは、様々な生業で各々の利害も考えも異なる雑多な人々です。徳のある人物もいれば、阿呆もいます。また、人には長短があります。

とはいえ、森羅万象すべての理を理解出来ずとも、何か一つだけ長けていればいいのです。他の事は、他の誰かがやるのです。それが世の中です。生業が分業であるのと同じように、社会の構築も各々がその得分や立場に応じて世の中に奉仕することで可能になります。それを歴史的人物の偉業だと簡単に言ってしまうのは、人物ばかりに着目する人の悪い癖であり、物事の一面しかとらえられていないのです。

註釈
(1)藤木久志『戦国の作法』172から180ページ。
(2)「文化十一年一月上杉川村庄屋新兵衛騒動書留帳」『新潟県史資料編8近世三』902ペ
ージ 
(3)代官の下が元締めで、その下に手代がいた。元締めは熟練の手代から選ばれた。
(4)この打ちこわしについては、「岩船蒲原両郡騒動実記」『日本庶民生活史料集成6』あ
るいは「蒲原岩船騒動根記―浜騒動記より」『荒川町史資料編三』を参照した。

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