【掌篇小説】 夜明け前に泣く
窓硝子がドンドンと叩かれたので何事かと思ったら、顔を真っ赤にしたおばあちゃんがいて、急いで冷房の効いた部屋に寝転ばせた。
目を大きく開いて、天井を一直線に見つめている。脇に保冷剤を挟んだり、うちわで仰いだりしているうちに、救急車が来てくれた。ひとり残しておくわけにはいかないので、ベロは隣の万次郎さんに任せることにした。
命に別状はなく、その日に帰ることができたのだが、父さんはこのことに冷淡だった。
「涼んどったのに、倒れとんやったら、洒落にもならへんわ。ぼこいな」
それを聞いたおばあちゃんは、すっかりしゅんとしてしまった。
「そないゆうたって……」
「ええから。明日からはここでじっとしとりい」
こうした光景を見ているのは、あまりにつらかった。でも、ぼくがここで口を挟めば、一発叩かれるかもしれない。後ろめたさはあるものの、部屋へ戻ることにした。
すると、階段を下りてきた母さんが、ひっそりとした声で訊いてきた。
「お父ちゃん、まだ怒っとるんか?」
ぼくが頷くと、母さんは、小さくため息をついて、苦々しい顔を見せた。
「ほんま、どろくたやなあ」
「おばあちゃんのこと、ぼこい、ぼこいゆうとったわ」
「どっちが、ぼこいんや。ええから、健一は、はよお二階にいきな。お母ちゃんが、ゆってくるさかい」
また、夫婦喧嘩がはじまる――いったい、父さんはいつから、あんなに怒りっぽく、ひねくれた性格になってしまったのだろう。
イヤホンを耳にねじこみ、美帆子が教えてくれた海外のアーティストの曲を聴きながら、卒論の作成へと戻っていく。
* * *
卒論の作成を夜遅くまでするのはよかった。
しかしタイマーと温度の設定を間違えてしまったせいで、今度はぼくが熱中症になるところだった。机に突っ伏して寝ていたせいで、両手がじんじんと痛んでいる。
コップ一杯の水を飲みに、そっと階段を下りて、玄関を通り……いや、通ろうとしたところで、仏間からぶつぶつとひとの声が聞こえてきた。
それは、念仏のように響き、夏ということもあって、霊的なものを連想させた。しかし、喉の渇きをこらえるわけにはいかない。ゆっくりと、襖を開いていく。すぐにぼくの手は止まった。
夕焼け色の電灯のせいで、ぼんやりとしか映らなかったが、そこにいたのは、父さんに間違いなかった。そして、床の間に置かれている舞妓の人形に向かって、なにかを話しかけているらしい。
あまりにも気味が悪く、ここにいることを気付かれたら最後、命を取られるのではないかという妄想が頭のなかに広がった。元来たところに戻りたい。しかし喉に潤いを与えなければ死ぬかもしれない。
そこで、這うような格好でそっと台所へと忍びこんだ。テーブルの下に隠れた。父さんが去ってしまうまで、ここでじっとしていようと思ったのだ。いつも、母さんのあとに起きてくるのは知っている。いつか部屋へと戻るに違いない。
それにしても、なぜ今日にかぎって、こんなことをしているのだろう。もしかしたら、いつもあの人形に話しかけているのだろうか。いや、いつだったか、この時間に起きてしまい、麦茶を飲みにきたときには、父さんはいなかった。
だとしたら――必死に今日が「なにか」特別な日なのではないかと、記憶を巡らせていく。八月二十六日。とくになにもない平日だ。
いや、それより考えなければならないことがある。あの舞妓の人形は、いつに、だれが買ってきたものだっただろう。そういう沈思を打ち破るように、仏間から父さんの声が、うっすらと聞こえてきた。
「そうですか……もうすぐ、いなくなるんですね。ええ、ええ……だとするなら、はやく……え? ほんとうなら昨日だった……じゃあ、あの子が……」
すると急に、はっきりと、父さんの啜り泣く声が漂ってきた。ぼくはもう、テーブルの下から抜け出すことができなくなってしまった。
右足がしびれだして、そっと姿勢を変えようとしたとき、不用意にも椅子に当たってしまった。その音に驚いたのだろう。ベロはケージのなかでワンワンと吠えはじめた。父さんがこちらへ来てしまう。その恐怖でよりいっそう身が縮こまってしまう。
しかし父さんは、やってこない。一分、二分……五分。もうこうなると、恐怖より喉の渇きの方が、よりいっそう、痛切に感じられるようになってきた。緊張状態が続くと、身の回りで起こっていることに、少しは慣れてきてしまう。
そっとテーブルの下から這い出ようとすると、何者かに右足をつかまれた。椅子の脚に引っかかったのかと思ったが、足首をぎゅっと握られているようだ。
おそるおそる、後ろを振り向いてみると――いったい、いつからそこにいたのだろう。
「お人形さんが、言いはるんなら、もう、長うないんやろうなあ。健ちゃん。おばあちゃんを、ひとりにせんとおいてえや」
〈了〉