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他人から見た私はあまりにも別人すぎる


「私、家では静かだよ…」

そうやって何度も誰かに
弁明した記憶があるのだけど、


信じてもらえた試しがない。


じゃあ、自分が思ってるだけで
家で静かじゃないのかもと思っていると、


今日は、目の前にいるのに
何度も家族に探された。


『ほんとに静かだよねぇ。
 部屋戻ったのかと思ったよ〜』


どうやらやっぱり静からしい。


他人が一緒にいて
心地よいと思うような人間を演じることは

息をするのと同じ感覚で
無意識にやってしまっている

と思うのだけれど、


今自分がいるコミュニティで、
本来の自分と、無意識に演じている自分が
かけ離れすぎてしまって、限界がきている。


気がつくのはいつも限界が近くなってから。


結局、
社交的な人間に憧れて、
社交的な人間を演じてみたり、


後輩に威張らない優しい先輩になったり、

興味津々に人の話を聞いてみたり、

大勢の飲み会に参加してみたり、

多趣味でアクティブで勉強熱心で明るい人間を

不器用なのに

演じたところで、

本来の自分との差に、
いつか膝を折って絶望するだけで、

何一つなれるわけじゃない。


もちろん、その一つ一つが全て偽りとは言わない

私の理想がたくさん詰め込まれた姿だ。


でも、本音を言うと、
誰かに全てを受け入れて欲しいと思っている。


私は、本来の自分が理想と相反して
残酷で無慈悲で血も涙もないような人間だと
感じているから、


見せるのが怖い。

だから、演じてしまう。


演じているのだから、
当然相手は本来の自分の人間性を
見ているはずがないのに

自分の印象を聞いて、あまりにも別人すぎて、

相手に申し訳ないような…

少しずつ出していた本当の自分を
知られる前に逃げ出したいような…

本当の自分にはきっと
がっかりするだろうという不安や

矛盾した点を早く修正しなくては
ならないなと思う焦燥感やらで


あぁ、なぜ演じてしまったんだろう

本来の自分を受け入れてくれるかわからない
コミュニティに属したい理由なんてないのに

このまま浅い関係、
心を打ち明けられない関係でいるなら、

演じ続ける辛さに耐えられる自信なんてないし、
いつか酷いことを言ってしまうかもしれない。


そんなことを考えてしまう。



自分のことを人に話すと言うのは

私にとって、
命を削られるような思いになることもある。


親しみやすさを出す為に
自分の情報を犠牲にしているだけで、

本来自分の情報を話したいタイプではない。

後から、
あぁなんで、あんなこともこんなことも
話してしまったんだろうと

苦しむこともある。


その情報を利用されるのが怖いのだ。


特に、近接したコミュニティであったとしても、
別のコミュニティになると、
個人個人で見せている顔が違うので、

こんなこと言ってたんだよと話されると、

どう思われるかを把握しにくくて、
不安がつきまとう。


それは自分がどう思われるかという不安ではなく、

そういう自分を知って、
相手が傷つく可能性を恐れている。


私は、器用ではない。
ゆっくりじっくり人に私を理解してもらおうと
思う忍耐強さもない。

人間関係には常に疲弊している。


演じて形成した人間関係の中で、
私の本質を理解しようとしてくれる人間だけを
愛して生きていけばそれで幸せなのかもしれない



人間関係のリセット癖は相変わらず健在だけど、

今はまだ、誤解されていたとしても
演じた私のままで耐えてみようと思う


どうせリセットしなくても、
私に興味がない人間は、
時間と共に消えていくのだから

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