尼僧の懺悔13

実家に再び戻った私は、絶望感とともに同じような生活を送っていた。

仕事もなく、社会の歯車から外れている人間は、責任も危機感もなく焦燥感だけが募る。
実家は自営業で、PCで文書入力の作業などを頼まれた時は、渋々ながらそれを手伝っていた。
年下の彼とは、細々とメールのやり取りを続けていて、時々電話などをしながら、それはそれなりに遠距離恋愛を続けていた。
たとえ無職でニートで毎日が失意のどん底でも、誰かに愛されているということは絶大な精神的支柱であった。

実家に帰って一年が過ぎた頃、私は剃髪をやめた。

師匠に、何度目かの療養延期を申し出ようとして、数回電話をした。
いつも忙しいので、だいたい一回では電話は繋がらないのだが、夜昼と数回かけているうちに、心が突然折れてしまった。

思い返せば、自分はとても頑張っていた。

いい出家と弟子であろうと、神経を張り詰め、師匠の一挙手一投足、箸の上げ下ろしにいたるまで常に真横で観察して、師匠が寝返りを打つ音にさえ反応して目を覚ますほどの緊張感で生活をしてきた。
言いたいことも言わず、聞きたいことも聞かず、自らのうちに答えが出るまで考え続け、考えてもわからないことは“そういうもの”という慣例を丸飲みする形で受容して生きていた。
そのストレスのなかで壊れそうな自分を自傷で支え、それでもカバーしきれなかった所を遠距離の彼との逢瀬で支え、その秘密を保持するための努力も惜しまなかった。
そこに冷暖房のない自然と一体になった修行生活がベースとしてあった。
真冬でも足袋もなく素足で草履をはき、外套など着ることも許されず、真冬のぞうきん掛けで霜焼けを悪化させて凍傷寸前まで手を腫らしたこともあった。

私は随分頑張っていた。
こんなに頑張って修行していたんだ。

繋がらない電話に重ねて、自分の努力とか頑張りが相手に伝わっていなことがありありと感じられて、私は突如として、もう尼僧を続けるのは無理だと悟った。
もう無理だ。
もうこれ以上の努力はできない。


その瞬間に私の出家は終わったのだと思う。
頑張れないという自分を、ようやく認めることができた瞬間だったかもしれない。
弱い自分に負けたことが、皮肉にも自分を救う唯一の道だった。


剃髪をやめて髪が伸びるのと同時に、私の出家生活は過去のものとなっていった。

そのうちに自動車学校で免許を取ることになり、実家での仕事の量も増え、地元の友人たちの飲み会に誘われたりして、私は普通の、ただの出戻りアラサ―になっていった。

師匠からはなんの連絡もなかった。
去るものを追わずというのが寺の不文律であったから、それが正しい。
自ら道を求めない人間につとまるほど、出家の道は優しくないのである。

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