尼僧の懺悔12
師匠と数回の話し合いを経て、一か月ほど後に私は再び実家へと返されることになった。
尼僧を辞める気はないものの、やはりセクハラ加害者と同じ空間にいることが自分の中で許容できない部分があって、その点でまったく折り合いは付かなかった。
多忙を極めていた師匠は、たった一人の弟子だった私が、適応障害でブラックボックス化している事を、正直もてあましていたのだと思う。
留守の間に自殺でもされたら困る。パニック障害で近所に迷惑をかけるようなことになっても困る。それならば、両親に保護監督してもらったほうが妥当だと思ったのかもしれない。
私は甚だ落胆した。
再び実家に帰ってどうなるというのか。
7年間あれほど実家に帰すことを拒否していたのに、今回は簡単に帰してしまう師匠にも、少なからず悲しいものを感じた。
とりあえず病気を治しましょう。治してから考えましょう。
至極まっとうなその理由に、私はいよいよすすむべき方向を見失って、未来は一寸先さえもわからないほど真っ暗に思えた。
ひと冬を実家で過ごした。
もともと雪国でもあったが、ほとんど家から出なかった。
時々さぼりながらも、カミソリが当たらなくならない程度に剃髪は続けた。家でも作務衣を着て、私はまだ尼僧でいようと努力した。
親父とは相変わらず揉めた。
病院には通っていたが心療内科の薬は飲まなくなった。
逆流性食道炎は相変わらずで、よくなったり悪くなったりをくりかえした。
そうして深夜にひとりで入る風呂で泣いていた。
時間はいくらでもあって、この先はまったくきまっていなかった。
春になって桜が咲くころ、母親と二人で師匠の寺に出向いた。
両親はもはや尼僧を続けさせる気持ちはないようで、娘の後始末を付けるつもりで寺まで着いてきたようだったが、私はまだ戻ることを望んでいた。
寺について本堂で読経を済ませようとしたが、ど忘れしてぴたりと止まってしまった。
随分時間が経ったのだと感じたと同時に、尼僧の成りをしながら偽物になってしまった自分に愕然とした。
辞めさせたい親の意向は十分に師匠に伝わったが、私はまだ尼僧でいたいと一方的に主張した。だいたいそもそも辞めろなんて一言も私に相談していないではないかと、その場で母親と口論になった。
誰も私の気持ちを汲んではくれない。親でさえも味方ではない。
徒労感で涙も出なかった。どこまでいけばこの宙ぶらりんから脱出できるのか自分でもわからなくなっていた。
とりあえず今日は連れて帰ります、とその日は母親にひきとられて、私は再び自坊を後にした。
帰り道に見た仁和寺は葉桜だった。
冬の衣が暑苦しくて、なんで帰り道に桜なんか見ているのだろうと、すっかり興覚めしながらそれらを眺めていた。
そのうち帰ってこれるとそれまでの荷物をのこしたまま、私は寺を出て、
そうして二度と、戻らなかった。