オリンピックと「あんなの」
子どもの頃から運動の試合や競争が苦手だった。
個人戦はいつもビリケツか
団体戦は「え~〇〇(私)と一緒?」
と言われるような運動音痴だったからである。
体育の時間と運動会は地獄だった。
今でもテレビで流れる試合や競技は苦手だ。
なのでオリンピックもほとんど興味がなく大して見てこなかった。特に今回の東京オリンピックは全く見る気がしない。
私がイジメられ始めたのは小学校2年生くらいからで、そのイジメが「他人と自分の能力の差」だということには早くから気づいていた。
毎朝の通学路では「どうして人間はみんなロボットじゃないんだろう。全員が全く同じだったら、どんなに楽だろう」と思いながら鬱々と学校に向かって歩く日々だった。
姉妹3人が同じ小学校に通っていたので、自分がイジメられているとは絶対知られたくなかったし、もちろん親にも言えなかった。
そこから年齢を重ねても
人と上手く付き合えなかった。
どうして自分が避けられるのか笑われているのか、解らなかった。もちろん今なら自分にも問題が有ったと思う。けれど十代の頃は家も大変で、自分が生きていることへの余白が無かった。
そこから20年が経ち、ありがたい事に今は穏やかな人間関係の中で暮らせている。
先日ラジオを聞いていたら「大人気の女流作家がリスナーのお悩みに答える」というコーナーがあり、聴きながらうーーーーんと唸ってしまった。
相談は「幼少期より自分の外見が劣っている自覚がありましたが、なるべく前向きに生きてきたつもりです。しかし時折見せられる外見からの辛辣な対応に心が折れそうです」という内容だった。
それに対して女流作家は「あなたは悪くない、そういう事をしてくる相手の目をしっかり見て下さい」と熱っぽく返答していた。
ああこの人は「この世界」には全く縁がなかった人なんだなあ」と思った。
批判されることとイジメられることは違う。
批判には相手がいるけど
イジメには相手がいない。
イジメる相手は絶対にこちらに関わらない。
越えられない透明の壁の向こう側で
何も知らないふりでやっている。
怒ろうにも立ち向かう先が無いのだ。
だってイジメは空気だから。
「相手の目をしっかりと見る」機会なんて無いに等しい。
ここまで書いて、思い出した。
一度だけ一対一で話した事があった。
小学校6年生の運動会、全員参加の100m競争で私は初めて1位になった。
そうしたら、クラスで足の速い女子が私のところに来て「〇〇(私)はズルい。あんなのと一緒に走ったら1位になるの決まってる。」と言った。
100m走は学年全体で振り分けられるので、公平を期してか速い子グループと遅い子グループにおおまかに分けられていた。私が走ったのはその学年でも一番遅い子ばかり「あんなの」が集まったグループだった。
「自分は足の速い子だけの中で一生懸命走って1位になったのに、あんたは楽をしてズルをした」というような事を言ってきた。
大人になった今なら「私の劣っている部分をイジメているあんたが場と能力の公平を問うのか?」と言うだろう。
しかし当時小学生でカースト最下位の私が言い返せるわけも無く、また応援してくれた家族にも何か申し訳なく、ただただ恥ずかしかった。自分の右手が握っている1位の旗を早く回収して欲しかった。
話しを戻そう。
その女流作家は「いい事言った!!」みたいなまとめ方だし、放送アシスタントの女性も「すばらっしいいです!感動しました!」で、「あんなの」側だった私は本当に胸糞が悪くなった。なんだろう、24時間テレビの簡易バージョンみたいだな、と思った。
今回のオリンピック小山田騒動で、私と同じように「イジメられていたあの頃」を思い出した人は沢山いたと思う。
忘れるわけないのだ。私はイジメの親玉だった女子生徒2名はいまだに名前も顔もちゃんと覚えているし、たぶん死ぬまで忘れないと思う。
オリンピックが取り上げられるほどに、選手たちの栄光や挫折、苦しみと喜びが伝えられるほどに、小山田がした事はどんどん薄くなって「そんな事まだ言ってるの」な空気になるのだと思う。「だってほら選手たちの頑張りを見て!」地獄か。
相手と同じ立場に立って
ものごとを考えることは出来ない。
でも、自分の立場から
相手に寄り添うことは出来る。
私はオリンピックは観ない。
「あんなの」と言われた人たちと共にヒザ小僧を抱えてじっとしていたい。その頃の無力で無知だった自分たちに、ただ寄り添っていたい。
つちのと