松平元康「三河平定戦」の代償-豊橋「十三本塚」伝承とその周辺-
1月22日に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』第3話「三河平定戦」では、桶狭間の戦い後、今川から離反し織田方に付いた松平元康(徳川家康)が、信長への奉公を明らかにするため、本拠地・岡崎城周辺の今川方勢力と対峙する様子が描かれました。クライマックスは、元康の裏切りに激高した今川氏真が、人質となっていた松平家臣の妻子を処刑した場面でしょう。ドラマでは、元康夫人の目の前で惨事が起きたように描かれていましたが、伝承では、吉田城(愛知県豊橋市)での出来事とされています。
松平元康の離反
永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いにおいて、今川義元は織田信長に討たれた。当時、今川麾下の部将だった松平元康(徳川家康)は、主君・義元の戦死を受け、とりあえず父祖伝来の地・岡崎城(愛知県岡崎市)へと撤退した。その後、義元の跡を継いだ嫡子・氏真が容認する中、元康は岡崎城にとどまりつづけ、今川方の対織田戦の最前線を守備する格好になったが、やがて母方の伯父・水野信元の仲介により信長とよしみを通じる。
明けて永禄4年(1561)3月、元康は、時の将軍・足利義輝の求めに応じ、義輝へ「嵐鹿毛」と名付けられた名馬を贈っている[本多 2022]。主君・今川氏真の頭越しに将軍家へと進物を贈ること自体、元康の今川家からの「独立」を示唆する振る舞いであり、今川からみれば元康の「反逆」であった。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、酒井忠次・石川数正ら松平家の重臣が、今川支配の圧政から家臣や民百姓を解放するため、元康に今川との事切れを迫る場面があった。だが、この段階では元康の正室・築山殿(ドラマや文芸作品では「瀬名」と呼ばれるが実名不詳)や嫡男・竹千代(のちの徳川信康)、長女・亀姫は、実質的な人質として駿府に居住していた。
さらに家中には、酒井忠尚をはじめ親・今川派の重臣も存在した。そのため元康にしても、今川に対する明確な違背は苦渋の決断であったろうし、実際には、ドラマのようにスムーズに事は運ばなかったと思われる。
結局、元康は今川からの独立を選択した。この意思が軍事行動として顕在化したのが、永禄4年4月からはじまった今川領・東三河エリアへの侵攻である。この動きは、少なくとも4月12日には今川氏真の察知するところとなった。そして氏真は、奥三河の有力国衆で作手(愛知県新城市作手地区)を本拠とする奥平氏らに元康との対決を命じたと見え、奥平定勝・定能父子は、今川方の牧野定成の居城・牛久保城(愛知県豊川市)が松平勢に攻撃されたさい、その援軍として出馬し、のちに氏真より感状が送られている[愛知県鳳来町立長篠城趾史跡保存館 編 1979]。
奥平勢は、桶狭間の戦いでは松平元康の麾下として出陣していたが、翌年には、その元康と直接干戈を交えることになった。当時の東三河の政治情勢は、目まぐるしく転変していた。
人質処刑の虚実
正確な時期はわからないが、元康の逆心を知った今川氏真は、自陣営の東三河での重要拠点・吉田城に滞在していた松平家の人質を、吉田城将の大原資良(別名、小原鎮実)に命じて処刑させたといわれている。
地元では、そのさい殺害された人質は下記の13名(異説あり)であったと伝えられており、わけても目を引くのは、「浅羽三太夫の子」以外の12名は、すべて誰かの妻女であったことである。動乱期において、まっさきに犠牲となるのは、いつの時代も女性や子どもであることを伝える教訓的エピソードであるともいえよう。
松平清善の妻
松平家広の妻
菅沼定盈の妻
菅沼貞景の妻
西郷正勝の妻
水野藤兵衛の妻
大竹兵右衛門の妻
大竹麦右衛門の妻
浅羽三太夫の妻
浅羽三太夫の子
奥山修理の妻
設楽貞通の妻
奥平定能の妻
ここで名前の上がった女性の配偶者をみていくと、まず、松平清善は元康に与力した竹谷松平家当主、松平家広は同じく形原松平家当主、菅沼定盈(野田城主)・菅沼貞景(長篠城主)・西郷正勝(月ヶ谷城主)・設楽貞通(三河国川路領主)・奥平定能(三河国作手領主)の5名は、松平・今川の両勢力が拮抗する境目一帯に領地があった。また、水野・大竹・浅羽・奥山らの属性は不詳である。
ただし、史書において確認できる刑死者は、松平清善の娘、西郷正勝の甥・正好であり、伝承との間に齟齬が見られる。また、菅沼定盈の当時の妻は桶狭間の戦いで今川義元に殉じた松平政忠の娘とみられるが、彼女が死亡したのは永禄9年(1566)であることが、その葬儀が行なわれた大恩寺(愛知県豊川市御津町広石御津山)の記録にあるという[愛知県御津町編 1985]、したがって、この時処刑されたのは、少なくとも定盈の妻ではなかったと思われるが、定盈と近しい関係の誰かが人質とされていた可能性はあるだろう。
以上のように、刑死者は何も女性や子どもだけではなかった。また、西郷正勝・設楽貞通・菅沼定盈の3名の今川方からの離反したのは、今川氏真が松平元康の反逆を察知した永禄4年4月の直後であった思われ、実際に菅沼定盈の居城・野田城(愛知県新城市豊島本城)は、同年7月に大原資良の軍勢に攻められ落城し、定盈は西郷正勝を頼って落ち延びている。このことから、人質たちの処刑も同じころに実行されたとみて大過ない。
ところで、件の伝承では、刑死者の中に奥平定能の妻が含まれている。しかしながら、このころの定能は、今川にとって対松平戦の功労者であり、この段階で奥平氏の関係者が処刑されるのは、いささか不可解である。おそらく奥平氏の妻云々のくだりは、永禄7年(1565)の春に定能をトップとする奥平一統が今川を見限り松平に与力した事実と、元康/徳川家康との情誼を重んじ、武田勝頼のもとへ人質として出していた次男を処刑された定能の逸話が、混交して伝えられたものなのかもしれない。
このように、刑死者の属性は諸説紛々としていて定かではないが、確かな点は、その中に明確に松平元康の家臣筋と思われる者はいないことである。要するに、松平清善と松平家広を除くと、いずれも三河国での松平・今川両勢力の覇権を左右する境目の土豪たちであった。つまり処刑の目的は、松平元康に対する見せしめというよりも、松平方に走った土豪たちへの今川方の報復であったのであろう。
だが結果からみると、今川氏真によるこの報復的処断は裏目に出た。まず上記したように、やがて奥平一統が松平方へ走った。そして東三河と境を接する遠江国の小領主らの多くもまた、まもなく今川氏と断交し松平氏へと従うことになる。
十三本塚の伝承
諸説あるが、この時の刑の執行方法は「串刺し」であったと伝えられている。執行場所とされるのは、人質たちが滞在していた吉田城の南にある龍拈寺(愛知県豊橋市新吉町)の門前である。同寺は、吉田城(築城時の名称は今橋城)を築いた牧野古白を供養するために創建された曹洞宗の名刹で、いわば地元の聖域であった。
刑死者たちの亡骸は「中野新田」に埋葬され、その人数に因み「十三本塚」と呼ばれたと伝えられている[豊橋市美術博物館編 1990]。今日、その正確な位置はわからないが、あるいは現在の国道259号線から北西に向かって別れる道を一本入った場所にある「福岡地蔵尊」(愛知県豊橋市小池町上ノ山)という小祠を、その埋葬地に比定する伝承もある。ここには、かつて龍拈寺の墓地があったとされ、現在でも旧盆の8月23日に死者たちの供養が行われている。
他方、十三本塚の墓標とされるものが、「福岡地蔵尊」の南西約300メートルの地点、国道259号線と豊橋環状線が交わる「高師口」交差点の南西側にあり、こちらを当該の埋葬塚とする伝承もあるが、はっきりしない。このほかにも、周辺には、この時の刑死者の亡骸を埋葬した伝える塚があるとされ、また、後に刑死者たちの慰霊のために建てられた小祠も存在するという[豊橋市美術博物館編 1990]。
以上のように、刑死者の埋葬に関わる具体的な古跡は不明であるものの、その惨劇の記憶は後世の人々の脳裏に深く刻みこまれたというべきだろうか。
関係者のその後
大原資良によって妻子を処刑されたと伝えられる者は、終生、松平元康/徳川家康に忠節を尽くした。そして、息子が家康に背いた菅沼貞景を除くと、その係累は後年隆盛し、大名にまで上り詰めた者も多くいた。
たとえば、松平清善は当時としては珍しく、80歳を超える長寿をまっとうし、嫡子の家清は、江戸開府後に吉田城3万石に封じられた。また、松平家広は孫の家信の代に下総国佐倉藩4万石の大名になる。菅沼定盈は、家康の江戸移封後に上野国阿保1万石を与えられ大名に列し、世継ぎの菅沼定仍が伊勢国長島2万石に加増された。西郷正勝は、外孫の女子が家康に側室(西郷局)として仕え、やがて徳川幕府二代将軍・秀忠を産んだことから、将軍家やその他の大名家へと血脈をつなぐことになる。
十三本塚の伝承は、松平元康/徳川家康の決断が、いかに悲惨な結果をもたらしたことを語って余りあるが、こうして被葬者の遺族のその後をみていくと、家康としても、彼らの犠牲に対しては、それなりに報いていたといえるかもしれない。
なお、主命とはいえ残虐な刑を執行したと伝えられる大原資良は、奥平定能が松平元康に臣従した直後の永禄7年(1565)7月、元康の重臣・酒井忠次の軍勢に吉田城を攻撃され敗北。城を明け渡して生地の駿河国へと撤退した[愛知県鳳来町立長篠城趾史跡保存館 編 1979]。これにより今川の勢力は、三河国から完全に払拭されたのである。
そして因果応報というべきか、後年、大原資良もまた今川家滅亡の混乱の渦中で殺害され、「戦死塚」の被葬者となった。その経緯は、機会があれば本稿で述べたいと思う。
(おわり)
《参考文献》
愛知県鳳来町立長篠城趾史跡保存館編 1979『山家三方衆(長篠戦史2)』 愛知県鳳来町
愛知県御津町編 1985『広報みと』7月15日号 愛知県御津町
豊橋市美術博物館編 1990『改訂版 豊橋の史跡と文化財』 豊橋市教育委員会
本多隆成 2022『徳川家康の決断-桶狭間から関ヶ原、大阪の陣まで10の選択』 中公新書