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人と距離を置く

ドーン。家でのんびりしていたら雷のような音がした。雷と異なるのは、それが一定のリズムで継続的に聞こえてくること。ドーン・ドーン・ドーン。

椅子から立ち上がり、大通り沿いに面した窓を開けてみる。音が聞こえてくる方を見つめながら、今日は地域の祭りがあったことを思い出す。

ドーンという音を鳴らしながら近づいてくる太鼓は、神輿とそれをかつぐ30人くらいを引き連れていた。近づいてくるにつれて、太鼓に合わせたワッショイ・ワッショイという掛け声も大きくなる。神輿を担ぐ人たちがはっきり見えるようになってからは、太鼓の音も掛け声もはっきり聞こえた。

と思っていたら、神輿はいつの間にかマンションの真下まできている。今になって、車道を一車線規制してそこを神輿が移動していることに気がついた。歩道には、撮影者や担いでいる人の家族と思しき人が歩いている。

近くで見ると、担ぐ人・担がずに後ろをついていく人・楽しそうな顔・しんどそうな顔、いろんな人がいた。ここまでくるのにどれくらい歩いてきたんだろう、めちゃくちゃ大変そうだな。シンプルな重労働に感心する。

と思っていたら、神輿はいつの間にか過ぎ去って、ドーンもワッショイも次第に小さくなっていった。雷のようにやってきて、嵐のように去っていく。江戸時代に大名行列の通り道に住んでいた人もこんな感覚だったのだろう。

神輿は家を離れていった。最初に聞こえてから5分としないうちに、一定のリズムで繰り返されるドーンとワッショイは離れ、小さくなっていった。

ふと、神輿が僕から離れていったのか、それとも、家を飛び出して神輿を追いかけなかった僕が神輿から離れていったのか、どっちなんだろうと思った。

僕はそこにいて、ただ通り過ぎる神輿を見つめていただけ。だが、すぐに玄関を飛び出してエレベーターに乗って一階におり、神輿を追いかけることもできたはずだ。暇でやることもないし。それをしなかった僕は、神輿から意図的に距離を置こうとしていたのかもしれない。

みんなでワイワイ同じことを繰り返しているのは、楽しい。神輿を担いでいる人たちも、周りと同調できているからこそ神輿を落とさずに進むことができる。そして同調のためには、ドーン・ワッショイといった、一定のリズムや繰り返しが必須である。掛け声を繰り返すことで、バラバラな人がまとまり、一体感を楽しめる。

しかし、自分と人の関わりが前にやったことの繰り返しでしかないと気がついた途端、シラけた気持ちが僕の中に広がっていく。

メンバーを変えて飲み会をしても、結局話すことは似たような仕事の愚痴と色恋話でしかない、と気がついたり。いろんなバイトをしてみても、結局は客と上司の機嫌を損ねないようにするだけでしかない、と気がついたり。いろんな人と恋愛をしてみても、結局はデートスポットを巡って些細なことが原因となって別れるだけ、と気がついたり。

繰り返しでしかないと気がつく瞬間は突然くる。シラけて、今まで楽しくできたことにノレなくなる。今までみんなと楽しくやってたノリについて行けなくなる。

一つのことにノレなくなると、そしてそのことに自覚的になると、他のことにもノレなくなる。周囲のノリに合わせられない人がすることは、観察者として人間関係を分析することである。観察者として人から距離を置けば、肌感覚でノリ続けることは余計にできなくなる。

一度神輿から離れて仕舞えば、あとは離れて行くだけ。追いかけることはできない。

最初に離れていったのは神輿なのか。はたまた僕が神輿から離れたのか。





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