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「Yes and No」 preview special

イエス・アンド・ノー Yes and No

 ブルックリンの我が家のデッキからハンディマン、エリック兄弟の作業中のラジオが鳴っている。
 スペイン語のビートの強いサルサ系の音楽だ。メキシコ人の多いこの地区は1ブロックごとに教会があり、一応カソリックの僕は毎日その前を通るときに十字をきる。そうするとなんだか守られているような気持ちになるのだから小さな頃の習慣とは不思議だ。
 エリック兄弟はトントンカンカンやっている。ドアを開けて「ハイ、ガイズ! 何か飲む?コーヒーでも?」と尋ねると、スペイン語で何やらゴニョゴニョ話し始めて「いや、コーヒーじゃなくてって言ってる … …」「じゃあ、お茶がいいかな? 日本茶は? 美味しいよ」またゴニョゴニョが始まる。「いや … …水でいいよ、水で。ありがとう!」「わかった。水を用意する。ちなみに赤ワインはあるけどね、なーんちゃって」と一旦ドアを閉める。するとすぐにエリックがガンガンノックして「みんな、それがいいって(笑)」だそうだ。「オッケー」ダビンチという格安だけど美味しいワインの栓を抜いてカップを人数分お盆に載っけて手渡す。外から「ヒャッホー」という歓声とともにトントンカンカンのボリュームが上がる。

 9番目の音は見つかったか。
 習うより慣れろとはよくいったもので、卒業して実戦で客を前にギグをやり続ける中で「気づき」がたくさんあった。
 学生時代に参加した日米混合チームのビッグバンド、ニュースクールの先輩たちが作った「モーニング息子。」。このバンドの発起人、僕をアメリカ社会へグッと引き寄せてくれたジョーはここ数年音楽から離れ、身体改造を行い体躯のいい中年ナイスガイへ変貌を遂げた。メンバーの一人トランペッターTAKUYAはアメリカ名門、ブルーノートレーベルからデビューを果たし、活躍中。
 2枚目のアルバムの中の「Spooky Smile」の歌詞を書いたミッチは故郷のオレゴンでロックバンドで活躍中。奥さんのヴェロニカは臨月で出産を待つばかりだし、歌姫アネットは自国ノルウェーに戻りテレビに出ていたが、子供を出産した後に体調を崩し病と戦っている。音大の仲間がそんな彼女を見守って温かいコメントを寄せている。ポエムのクラスで仲が良かったメキシコ人のバーニャはスペインの大スター、ミハエルのツアーでアコーディオンを弾いていたが、今や彼女も数日後に出産を控える妊婦さん。この頃は黒魔術を唱え始めた。スイスに帰ったハネスは大学の教鞭をとる傍らジャズトリオで大活躍中、詩人の会の盟友バーナードは70代後半に差し掛かって今やNYのポエトリーリーディングを仕切る大ボスだし、奥方のダイ(ダイアン)はバイオリニストとしてソロコンサートを成功させている。
 ニュースクール大学時代の仲間たちは皆それぞれの夢へ踏み出している。僕も恥ずかしがっている場合じゃない、勇気を持って踏み出そう。

 知り合いのジャズピアニストがロリというPRを生業にしている女性を紹介してくれた。ロリと会ったのは2018年の夏だった。ベッカムやオバマなどのPRも行っているエージェントに所属する凄腕の女性で、すごいなあ、と経歴を眺めていたら、マネージャーのKayがあっさり僕とロリをくっつけてくれた。電話して会えるようにセットアップしてくれたのだ。ロリはロス在住、僕らはニューヨーク在住。アメリカの西と東の端同士。
 2017年にシカゴを中心とした中西部ツアーを企画して実現させた旅行業界出身のKayは、その都度彼女にギャラを支払うという関係でマネージメントをやってもらっている。本人が言うと何かと角が立つようなこともクッションがあるとうまくいくこともある。
 ロリとはロスのオフィスで3人で会うことになった。2018年5枚目のピアノソロアルバム『Boys & Girls』の時だ。会うなり彼女はこう言った。
「あなたのPRをやるのかって? その答えははっきり言って〝Yes and No”よ。あなたが何をやりたいかを知れば、それが無謀なチャレンジか整合性のある仕事かどうかがわかる。Kayから連絡をもらい20分で私たちガールフレンズになったの。あなたは結婚してるの?」
 テンポが速い。
「あなたの音楽は私には力があると思えるし、こうやって実際に会ったあなたはチャーミング。で、あなたのゴールはどこ? 私との契約のこの4カ月で(最初の契約は4カ月だった)何をしてほしい?」
 日本だと事務所、レコード会社があり、そのスタッフたちが、放送局、雑誌社、マスコミへの対応やPRを行ってくれる。アーティストは事務所とレコードレーベルに所属することから始まる。
 アメリカは根本的に違う。まず自分が独立して会社を持ち、いろんな分野で異なるロイヤー(法律家)や、PR、マネージメント、ベニューブッキング、ラジオPR、テレビや雑誌新聞媒体のピッチ(宣伝)など、それぞれと一定のタームで契約し、連携する。PND(レコーズ/僕がCEOを務める会社) 立ち上げの頃、そんなことも全く知らずに一人で黙々とジャズを耕していた土は決して悪くない色と艶をしていた。そこで育った果実や作物はそれなりの味がして、一つ一つ手で売ると買ってくれる人がいた。これは僕の基本なのだが、それを広げて先のチャプターを目指してもいいのではないか?
「グラミーは狙ってる?」
 どうやら彼女はしびれを切らしたらしい。ゴールを決めないと始められない。そう彼女は言った。僕は頷いた。そして恐る恐る言葉にしてみる。
「最初のゴールはグラミーです」
 照れもなくスルッと出た言葉に自分が一番びっくりした。ロリもKayも何も驚く気配もなかった。4枚目のシーラ・ジョーダンと作った『Answer July 』でグラミーのコンシダレーションまで駒を進めた挑戦をさらに先へ繋げることをゴールに決めた。
「じゃあ、早速ピッチ(宣伝)を始めるわ。販売促進キット制作からスタートよ。Kay、過去作品のリスト、宣伝に必要そうな関係者、共演者、そして今まで演奏したことのあるベニューの名前を使えそうなところ全部出して」
 カリフォルニアの青い空。僕らは、サンセット通りの表に位置する空いているバーで、茹ですぎだけれどチャーミングで美味しいトマトペンネに舌鼓を打った。年前、ジャズを学びにNYへ行くと決心ぴした途端に信号が青に変わり始めた。あの時と同じようにまた信号が青に(今はアメリカなのでグリーぴンだが)変わり始めた。スピードが加速する。

 9番目の先にある音に誘われて僕はふらっと旅に出た。
 長く曲がりくねったこの道はいったいこの先どの闇へと続くのだろう。

ジャズは心の写し絵。その自由を手にするには膨大な知識と経験がいる。気がつくと無意識に鍵盤に指を滑らせているのは、ジャズの「不思議」の鍵を見つけたいという強い衝動があるからだ。
 ぴはパパの孤軍奮闘を「あらそうなの?」と横目で眺めながら、ときおり「よく頑張ったね」とペロッと顔を舐めてくれる。おそらくそれくらいのご褒美が、パパには必要だということを知っているかのように。いつの間にか立派なアメリカ犬だ。

 ロリが興奮している。
「あり得ない抜擢よ。NBCの西海岸ネットワークをほぼほぼ網羅しているモーニングショーのプロデューサーがSenriを出演させてもいいって。このピッチ、進めていい?」
 なぜ僕が? 経歴に興味があるのかもしれないがチャンスがやって来た。
「ぜひぜひ、進めてください(心臓の音、ドキドキ)」

 ロスへ行く回数が増えてからの宿泊先は、「さくら証書」を共作しプライベートでも友人の、八神純子さんの娘さんエマと彼氏のトッドの家。エマはアメリカのエンターテインメントの厳しさを知っている。
「すごいじゃない。みんな見るよ。たくさんの友達に伝えるね。今夜は祝おうよ!」
 エマは自宅のプールサイドで僕のグラスにナパバレーの赤ワインを注ぎそう言った。彼女はいろんな仕事にチャレンジしたのち今は大学に戻って勉強中、トッドは介護士。そんな忙しい二人がLAに僕とぴがやってくるともろ手を挙げて大喜び。そばにはトッドの友人のDJアンソニーとコメディアンのジョンソンがいる。アンソニーが自宅から持ってきてくれた簡易キーボードをセッティングして僕が演奏をし始めると、それぞれが体を揺らし始めた。肉が焼けるいい匂いが風に運ばれる。
「Senri、プールに飛び込むわよ!準備はいい? 」
 大きな歓声とともに星が瞬くカリフォルニアの夜空に水しぶきを上げて僕たちは瞬間魚になった。アメリカの端っこ同士に住んでいる僕らが「幸せのタネ」を分け合ってここにいる。
「ねえ、ロスに引っ越してきなよ」
「そうだよ、俺もそれを言おうと思ってた」
 とエマとトッド。
「どうする? We are so Serious. (マジだよ)Yes? No?」
 うーん。くすぐったいような思いで不意に出た言葉がロリとの会話で覚えたばかりの、
「Yes and No!」
 会いたい人がいる場所が増えていく。アンソニーが「正しい!」と叫んだ。ジョンソンは腹を抑えて笑い転げた。
 NBCの収録の日がやってきた。KayはNBCに近いロケーションに泊まり、朝、駐車場で集合した。ロリに「もう着いたよ」と電話すると「なぜそんなに早く現場に行く?」と不思議がられてしまう。僕とKayが待ち合わせた時間は集合時間より30分早かった。
「だって何があるかわからない。モーニングショーだから。(録画なのだけれども)一回遅れたらもうこんな機会は二度とない。念を入れて早めに集合しよう」
 30分前だとバズを鳴らしても中に入れてもらえないのでスタバで買ったコーヒーをフーフーさせながら地べたに座って飲む。この日のために友人のYuko(ロス在住。グラディス・ナイトのバンドのキーボーディスト)に借りた電子ピアノとホールダー、譜面台、アンプ、コード類などを折りたたみ式のカートに積み上げ汗びっしょりで。何度関係者に電話をかけても連絡がつかず、吐く息がだんだん荒くなるKay。
「ハーイ、あなたSenri?」
 そんな時不意に中からドアが開いて若いスタッフの女の子がひょっこり顔を出した。
「そうだよ」
「何かお手伝いすることある?」
 カートにバランスよく載っている楽器類を眺めて「そうだなあ」と考える僕。彼女は、「私の名前はベッキー。じゃあ、持てそうなもの、譜面台とペダルを持つわね」
「十分だよ、ありがとう」
 通常であればモーニングショーは生が終わったところなのだけれど、その後にゲストとのセクションを貯め撮りする(これに僕が出演する) ためにキャストはメイク室に残っている。ああ、何かの番組で見たことある見覚えのある顔の男性アンカーがメイク室に現れ僕の隣に座った。この人全国区で出てる。メイクの女の人と丁々発止の会話をする彼らがたまに「でしょ?」と僕に相槌を求める。「だよね」と合わせてみる。英語、今ので大丈夫だったのかな? そんな調子で僕自身のメイクも完了する。アメリカに渡ってテレビ出演のフルメイクをするのは初めて。
「さあ、終わったわよ。見違えるほどいい男になったわ」
「あ」
「え?何?」
「眉毛を一応お願いしてもいいですか?」
「もちろん」
 タフなアメリカ生活ですっかり抜けた眉毛。せっかくだから眉くらいしっかり描いといてもらってもバチは当たらないだろう。ほんの少しだけグレードが上がった気分だ。
 そこへやってきたロリが「あれ? おはよう。顔が違う。よかった。クールよ」
 楽屋に戻る。メイクしたての顔で、スタバじゃない2杯目のコーヒーを淹れる。テーブルの上にあるスクリプトには「Senri Oe 登場。いろいろ喋って演奏。そして短めのトークで送り出し」とだけ書かれていることはすでに昨夜ロリからのメールで確認済み。
「目を通した?」
「うん」
 と僕。Kayは心配そう。
「調子良さそうだから安心した。大丈夫そうね。きっとうまく行くわ。リラックスして楽しんできて、行ってらっしゃい」
 ロリに背中をポンと叩かれてスタジオに入る。女性キャスターが二人、別のセクションの部分撮りの読み合わせを行っている。ハイ! と会釈をして僕がカートに載せた楽器類を定位置にセットアップしているとそのうちの一人がそばにきて、「Senri、あなたの音楽をリスペクトしてるわ。なんだかとっても癒されるの。よろしく」
 と言ってくれる。くすぐったくて肩をすくめてしまったが、すぐに離れた場所にいたもう一人のキャスターの女性が「抜け駆けはダメよ。私だって大好きなんだから。いっぱいお話聞かせてね」と手を振る。
 短めにリハを終えてペダルの位置を確定しスタッフに床にテーピングしてもらう。これでセッティングが変われど大丈夫。照明が入り、調整室からプロデューサーの声が聞こえる。
「じゃあ、トークのリハやってみよう」
 画面のプロンプターには「防弾少年団など韓国ポップの入り口を築いた千里はジャズへの道を志し … …」とあった。えっと。「これ、僕は韓国ポップではなく日本人ですが … …」
 すかさずさっき僕のところへ来て声をかけたキャスターの女性が「そうよ、韓国人じゃないでしょ。おかしいわ」もう一人のキャスターの女性が「アジアのポップの礎をってことね。そのニュアンスをちゃんと伝えなきゃ視聴者は混乱して韓国人だと早合点するわね」
 プロデューサーの声が彼らのイヤフォンには聞こえているらしく、しばらくああだこうだのやりとりが続く。僕はそれを見守るしかないのだけれど、結局プロンプターの文字はあれこれ書き換えられた挙げ句、元に戻ることになる。
「心配しないで、このフォーマットだけれど、私がきちんと理解してるから。あ、もう本番ね、よろしく」
「私もきちんとフォローするわ。楽しみにしてる。あなたの音楽を生で聴けるのを」
 わずかな時間の中でのおしゃべりと演奏は一種のルーレットである。何が原因でうまくいったりいかなかったりするのかは分析できるものではない。場の空気。時の運。出演者の集中度とリラックス感のバランス。いや、もしかしたらメキシコ教会を通り過ぎる時に十字を切るあのおまじないが功を奏するのかもしれない。
 録画は無事に終えることができた。最初のセクションで若干緊張している僕に、あの最初に声をかけてくれた女性がやんわり「ね、ね。Senriって、今日生演奏ってしてくれるのよね?」と微笑んだ。
 もちろん!
 時の流れがうねり、僕はスムーズに演奏に突入した。彼女たちは体を動かしそれを楽しそうに眺めている。その後、短い話を受けて収録が終わった。
「ブラボー! 素晴らしい! ありがとう! 見事な収録だ。僕はこれからもまた君を応援するからね」
 プロデューサーがスタジオに駆け降りてきて僕に握手を求めた。
「やっぱり素敵だったわ」
「ライブをロスでやるときには必ず誘ってね」
「君たちのおかげだよ、ありがとう、必ず」(僕もよく言う)
 カメラの横でまだ固唾を飲んで会話を見守るKayは緊張が解けないまま倒れそうな顔。収録中カメラの右左を移動して見守り続けたロリはスタジオを出て行くプロデューサーを追っかけて飛び出していった。
「まずは成功ね。じゃあ、私は彼に次の出演を売り込んでくる」
 僕とKayはYukoに楽器を返しにウーバーを呼ぶ。もうすっかりメイクを落とし素顔になった。キャスターの二人は「じゃあね!」と手を振ってスタジオを後にする。
 それぞれの次へ、それぞれの日常へ。ただ人生の登場人物が新たにキャスティングされた。

『マンハッタンに陽はまた昇る 69歳から始まる青春グラフィティ』より(C)Senri Oe 2021

↓次はこちらも読んでみてください。
https://note.com/senrigarden/n/nb0042d1f56d6/edit



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