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大川直人氏のこと。

大川さんの個展の情報が解禁になった。大川さんの写真を使わせてもらう僕自身の7インチシングル「Rain」と「Letter to N.Y.」のアナログ盤発売の情報が公開になったので、このタイミングで大川さんの個展へ向けてメッセージを自分なりに文字にしておきたいなと思って。

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大川さんとは僕のデビューアルバム『WAKUWAKU』(1983)をレコーデイング中の六本木ソニースタジオで会ったのが最初だ。当時AFTER HOURSと言うクリエイティブチームがあって(クリエイター仲間の総称って感じの)その中心がEpicのデザインチームにいたデザイナー植田敬治さんと植田さんと高校生の頃から仲のよかった大川直人さん。大川さんはまだカメラマンを始めて間もない頃だったんじゃないかな。

僕のデビューアルバム『WAKUWAKU』の表1はもう既に他のデザイナー(同じくEpicデザインチームのムシャさん)の指揮の元に進んでて、別のカメラマンで撮影を終えていたのだけれど、アルバムの表4(裏表紙)をムシャさんから植田さんのラインで大川さんが急遽やることになった。僕は六本木スタジオで曲をレコーディングしてて、一旦それを止めてグランドピアノをスタジオの真ん中に運んで真横から僕が鍵盤を叩く姿の写真を撮影した。その時セットアップから撮影そしてセットの片しまで汗びっしょりでやってのけたのが大川さん。植田さんも心配そうに現場にいてチョコチョコ手伝ってたかな。

全部撮影を終えてコンソールルームでなおも汗いっぱいかきながら「お疲れ!」なんて言い合っているとき、ふと気付いたのが僕も大川さんも植田さんまでもが皆一様に着てる服がダンガリーシャツだったということ。ダンガリートリオ。

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僕たちはどっか一生懸命なところも笑うタイミングも好きなものの趣味もよく似ていて、一緒にいると楽しくて撮影が終わってからもずっと居心地が良い。だからなんだかんだで一緒にいる時間が多くなり仲良しになった。そのうちムシャさんも笑いながら「植田!お前と大川とで千里の次のシングル撮影してみろよ」的な流れになったんじゃないかな。この頃、僕のマネージャーだった舟橋さん(元ファミリアの社長秘書)も加わりみんなでワイワイ笑いの絶えない撮影現場だったのを覚えてる。

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あのあと割とすぐに、EBIS STUDIOで2枚目のシングル「ガールフレンド」を撮影したと思う。花束を後ろに持つという姿勢は苦しくて笑顔どころじゃなかったけれど、これをきっと喜んで手にとってくれる人がいるはずだとみんなで信じて乗り切った。

そのとき「GB」の編集の神さんやライターの藤沢映子さんなんかもそばにいてくれることが多くなり、みんなでチームのように一緒にあちこちへロケに行くようになる。神戸にも行った。ファミリアの関係で異人館のアメリカンハウスを舟橋さんが借りてくれて、その中で2ndアルバム『Pleasure』の写真をほとんど撮影したんじゃなかったかな。僕はプランなしにいきなり動くので大川さんは休憩中もカメラを首からブラ下げて、休憩中にお茶を飲んでたりしても僕が急に動き出すのでいきなり撮影大会が始まったりした。

「あ、面白そう」「この光だと影が良くない?」そんな感じ。ほっとくといつまでもどこまでも撮影は続くのだった。とにかくいい写真が撮れて増えていくのが楽しくてしょうがなかった。

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4thシングル「Boys & Girls」のあの飛んでる写真はEBIS STUDIOでなんだけど、写真:大川さん、デザイン:植田さん、そして現場で起こる様々な出来事を舟橋さんが関西弁で小気味よく仕切ってくれてた。あ、そうだ。大川さんが確かスタジオボーイ時代にEBIS STUDIOにいたんだ。だからスタジオに顔も効いて知り合いばかりでみんなよくしてくれた。2階にある「ten」ってレストラン。そこのオムライス、絶品だったなあ。スタジオにも出前取るんだけど、みんなで店まで降りてって食べるのがやっぱ一番最高だった。大概「GB」や当時できたばかりの「PATIPATI」などのスタッフと一緒で、時にそこで合同インタビューをやったりした。で、一生懸命音楽の話を力説する僕をみながら、離れた席から「うん、そう、そうだね」なんて大川さんが朴訥とうんうん頷いてた。

EBIS STUDIO, 青山一丁目西館のEpic Sonyが東京での一番時間を費やす場所だった。そして東海道新幹線で新大阪まで帰って最寄りの駅に止めた自転車で田んぼ道をゆらゆら星を見ながら実家へ戻った。僕は「日本一忙しい大学生」。

「Boys & Girls」のあの飛んでる写真の話に戻るけど、ステーショナリーを一緒に投げて飛ばして僕が空中に浮いてる写真と一緒に映り込ませる。そして全てが空中にある写真を撮れたらそれを本チャンで使う予定だったから、1回飛ぶごとにみんなで「セーノ」でノートや消しゴムや飛ばして大変だった。「奇跡の一枚」を求めて何回も何回も頑張った。もう延々と「セーノ」をやり続けてクタクタになっちゃった頃やっとあの採用になった一枚が撮れたって言う、、、。それはアナログ時代の貴重な思い出。

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植田さん「大川、このテイクいいんじゃない?」

大川さん「おお、いいね。うん、いい」

植田さん「千里、これどう?」

千里「わ、いい。いいね。いいわ」

植田さん「やった。じゃ、シングルはこれに、、、、、決定!」

パチパチパチパチ。

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僕は撮影と言う経験、ほぼ大川さんとの仕事から始まっているので、彼のシャッターを切る音を聞くと「あ」と心と体のスイッチが入るのがわかった。その音を聞くとこれが撮影なのだと肌感覚で記憶した。そのあといろんなカメラマンとのセッションが増えていくのだけれど、あの大川さんの「カシャ」っていうプロとしての仕事での最初に聞いたシャッター音が今も基本になっている。「キビキビして」「上品で」「被写体を邪魔しない」音。僕の中で「撮られるモードになる」音だった。外で他流試合をしてEBIS STUDIOに戻ると大川さんの「カシャ」は僕にとっていつだって「千里、おかえり」だった。

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一緒に日本だけじゃなく海外へも撮影に行った。「PATIPATI」の表紙&巻頭の撮影で最初はフィリピンのプエルトアズールへ。まだ僕の認知は雑誌の表紙ができるほどじゃなくて若干青田刈りっぽいノリでファンとの懇親会&「PATIPATI」のグラビアというダブルで企画が成立して現地へ旅立ったのだった。だから撮影以外でも色々アイドル的なこともやらなきゃいけない。ご飯やテニス大会、失念したけどプールでの椅子取りゲーム? なんかもみんなで楽しくワイワイやった気がする。僕がその時かぶってたちょっぴりエスニックなゴブラン織りの帽子が妙に焼けた肌にはまってて後々コンサートの楽屋とかでフレッシュシスターズ(濱田ペコ美和子さんと豊広純子さん)からいじられたものだ。

豊広さん「先生(僕のこと)、今日のお帽子、パチパチのですか?」

濱田さん「あ、例のやつね。フィリピンのゴブラン織りの」

記憶はそれこそおぼろげなのだが、プールサイドや草原やホテルで撮って撮って撮りまくった。僕がポージングを決める時「これどうかな?」って内心ちょっと迷いのあるやつを混ぜてみると大川さんのシャッター音が聞こえない。そんな時は、カメラ越しに無言の「.......」が伝わるようで怖かった。

これがダメとかもっとこうしたらとか一切言わない人なのだけど、違うなという時は嘘をつけずに「........」となる。だから、常に緊張感があった。

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もうあまりにエピソードが多すぎて1回だけでは語りきれないのだけど、僕が40歳あたりの頃だったと思う。フィンランドへ一緒に行ったことがある。ロバニエミという世界最北端の街でそこで一足早い雪のシーンやサンタクロースとの掛け合いを撮影する予定だった。『Winter Joe』という冬のベストアルバムの撮影とビデオ撮影、加えて「Pagotapia」というクリスマスコンサートをグローブ座で始めるので、その最初の回のパンフ撮影もやっちゃおうとという慌ただしさだった。

その時の旅は大川さんとアシスタントの人、そして僕のマネージャーの小川さんと僕というプチ世帯で行った。行きの飛行機の中でずっと気になっていた足の付け根にできたイボがだんだん大きくなってオセロ空港から乗り換えでロバニエミに向かう頃には激痛で一歩も歩けないほどに悪化していた。気圧の関係もあったように思う。やっとの思いでロバニエミのホテルにチェックインしたとき意識を失うほどだったのだ。部屋に入ってからも横になれるわけもなく緊急病院に出向いてそのイボを除去することになった。

今でも覚えているけどロバニエミの病院は氷で患部を冷やして神経を麻痺させてそこへメスを入れてイボを取るという手法だった。すぐに膿んだ患部の熱で氷が溶けてくる。するとグサグサザクザク切られる感覚が伝わってきて死ぬほど痛かった。でも幸い無事にイボはとれて手術は終わった。僕は悶絶しすぎて疲れたのかそのあとはホテルで気を失ったように爆睡した。

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翌日から大川さんとの撮影はハードだったが頓服も幸いして嘘のように動けるようになり、何日間かの撮影を無事に終えることができた。これには後日談があって日本に帰ってからグローブ座の初年度の「アジアンクリスマス」で空中浮遊をプリンセス天功さんに習ってやる予定ができなくなってしまう。何故ならば患部のイボは実はイボではなく腫瘍でありそれがあちこちへ転移してしまったからだ。

この腫瘍には40代の時にかなり悩まされることになる。その後もなんども「除去しては転移する」の繰り返しでもう手術をしないほうが逆に増えないのではという判断で45歳くらいの時に除去するのを辞めた。

人生で一番苦悩に顔を歪めて撮影をしたあのフィンランドの現場で、大川さんはずっとシャッターを切っていた。時にビデオカメラを回してもいた。スチールを撮影する時の大川さんのシャッターの音が静寂の雪原に響き渡る。それは、切れ味のいいナイフのような音だった。一面、雪の森に二人で迷い込み、時にはテントで火を囲みエルフと絡み、最後は最北端の北極圏でベリーのような赤い実を見つけて一緒にシャリシャリ奥歯で噛み締めた。

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アメリカに渡ってしばらくしてからの2018年だったかな? 日本へ帰国した時。大川さんからなぜか珍しく「千ちゃん、もし時間あったら撮影しない?」とメールがあった。僕は「もちろん」と即返事した。もうEBIS STUDIOは閉館でなくなってたのでほど近い場所にある大川さんのハウススタジオで行った。

当日はこのnoteでもお世話になってる元角川書店の編集松山さんを誘い現場に赴いた。旅に持ち合わせていたスーツを2着代わり番こに着込み、久しぶりに大川さんに向き合った時、二人の間に流れる時間の濃密さは以前と全く変わらなかった。お互い緊張してたんだろうなあ。だから最初の「カシャ」で「なんだ。あ、変わってない」って思い、次の「.......」で「なんだ、全然、あの頃のまま」って確信に変わった。

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近くにあるおむすび屋さんで予め何種類か買ってくれてたおむすびとレトルトの味噌汁で乾杯して、あの頃のtenで食べたオムライスと同じような時間を過ごした。松山さんも加わって「月刊カドカワ」時代の話になったりその頃大川さんが編み出した「グッドイヤー」(1個前のぴの耳寄りを参照)をつけてワイワイ盛り上がった。そして思い出したかのように時々またスタジオの照明の中バック紙の前へ移動して、撮影をした。撮影が合間? そんな時間が流れていった。

便利な時代で「これオッケーだよ」っていう本人印をその場でPCの画面を見ながらクリックして決めれるのだ。それを全部一枚のCD-Rに入れて僕に「はい」とくれた。その時に撮った写真をたまに僕のSNSにあげるとみるみるうちに「いいね!」がつく。不思議なもので感覚的に「あ、わかる」って感覚とそこに込められた熱量が直に写真から伝わるんだ、と思う。

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2022年、久しぶりに大川さんがシリアスに「千里の傘を持ってる写真をかくかくしかじかで個展で使いたいのだけれど」というメールをもらった時に僕は折り返し「いいよ」と返事をした。で、SONYにそのかくかくしかじかを伝えたと思うのだが、それがのちのち7インチシングル"Rain"のジャケットになるとはその時夢にも思わなかった。大川さんにはわざわざメールで聞かなくても勝手に使ってもらってもいいのにと心で思いながらも一応僕も業界長く生きてる人間なので「いいよ」とだけ素っ気なく返事したのだが、その時の大川さんの添付してくれた「傘をさす大江千里」の写真を見てSONYのスタッフは「これ、Rainのジャケットにいいのでは?」と直感したのだと思う。

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植田さんと大川さんの喋るボソボソする声を僕がよくそばでモノマネをすることがあった。植田さんも大川さんも喋る音量が小さくてボソボソ喋るのだ。だから二人がする打ち合わせの内容が時々聞き取れない時がある。僕がモノマネする植田さんと大川さんの会話。それを聴いて大笑いしてまたボソボソ会話をする二人。そのうち、モノマネする僕を素のおしゃべりの二人が食っちゃって、僕も笑いながらモノマネを続けて、3人でボソボソをしばらく続けることがありボケてボケてボケまくって、、、、、挙げ句の果てに、、、、、、、、、

「早く誰か止めたらんか〜〜〜〜い!」と僕がツッコミみんな大笑いで終了した。

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きっと植田さんをはじめ元AFTER HOURSのメンバーは個展に集まるだろう。元AFTER HOURSの、当時は助手をしてた『red monkey』のデザイナー斎藤倫世さんや、今も植田さんと一緒に働いてるアシスタント梅ちゃん、メイクのゆみちゃん、舟橋さんもきっと、小川さんも、松山さんも、あのフレッシュシスターズも、、、。行きたい気持ちはマウンテンマウンテン(山々)だけど、ブルックリンからジャズを耕しながらそっと気にしていよう。

文・大江千里 写真・大川直人 (C)Senri Oe, Naoto Okawa, PND Records 2022







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