彼の決意は壊せない -砕かれた【黄金比】-
――さあ、今日も『勉強』だ。
グラバールで、かつて『天才』と呼ばれた蒸気機関技師、アルトゥ・シャオンは、工具を手に取った。
青い空から暑い日差しが降り注ぐ。天気は快晴だった。
朝、アルトゥは家を出て、アルフライラ郵便公社へと向かっていた。カバンのなかには《手紙》ではなく、彼自身が愛用する工具が入っている。普段は特務局員の一員として局内を出入りしているアルトゥだが、今日の目的は別にあった。
本日は郵便配達の仕事はお休みだ。特務局員の仕事は特殊だが、休日や福利厚生は、その辺の企業と比べても遜色ないほど、充分に保障されている。
しかしながら、アルトゥに限っては、特務局員としての『休日』がアルトゥ自身の『休み』には繋がらなかった。というのも、休日は彼にとって己の技術を磨くべき時間に充てられるからだった。
郵便公社に着くと、公社内にある蒸気科学ラボへの入室許可を得るため、アルトゥは受付の女性に話しかけた。
「……どうも」
「あら、アルトゥくん、おはよう。早いわね」
女性はにっこりと笑顔を向けた。アルトゥが受付に行くと、いつもこの女の人が対応してくれる。アルトゥより少し年上の彼女は、『お姉さん』という呼び方がしっくりくるような、大人びた優しい雰囲気をまとっている。そのお姉さんの笑顔が眩しくて、つい目をそらしたくなったところを、アルトゥは、ぐっとこらえた。
「手伝いに来たんだけど、今日もラボ、入っていい?」
「ええ、大丈夫よ」
お姉さんはそう言うと、慣れた様子で手続きをして、アルトゥを案内した。蒸気科学ラボへと向かう途中で、配達部を横切る。ちらりと様子をみると、今日もたくさんの《手紙》が届いていた。アルトゥには、担当地域ごとに仕分けされた《手紙》たちが、早く受取人の元へ届けられることを、今か今かと待ち侘びているように見えた。
「いつもアルトゥくんが来て、みんな助かってるわ。今日もお願いね」
「うん。分かったよ」
蒸気科学ラボの、とある一室へと案内された後、お姉さんに感謝を述べて、アルトゥは部屋に足を踏み入れた。
そこには、スキッパーや、蒸気バイク、歩行重機……蒸気科学によって生み出された、ありとあらゆる機械たちが集められていた。
これらの機械には共通点がある。それは、ある程度使い古されたり、何かしら欠陥や不調を抱えたりして、点検、あるいは整備・修理を必要としているということだ。……つまりアルトゥは、整備室を訪れたのだった。
――さあ、今日も『勉強』だ。
グラバールで、かつて『天才』と呼ばれた蒸気機関技師、アルトゥ・シャオンは、工具を手に取った。そして他の整備士たちに交じって、機械の整備・修理の手伝いをし始めた。アルトゥの手にかかれば、どんなに使い古された機械でも、瞬く間に修理され、蒸気科学の力を再び身に宿す。その手さばきは、あまりにも華麗だった。
――黄金比の調律。
アルトゥには常に見えている。機械のあるべき姿――【黄金比】が。アルトゥは、ただ機械たちを、その黄金比の見えるままに整えてやっているだけだ。しかし他の人たちから見れば、彼の技術は常人のなせる業ではないのだった。
「ほら、全部終わったよ」
一息ついて、アルトゥは顔をあげた。整備や修理を施された機械たちは、ピカピカに磨き上げられて、きらきらと輝いている。『手伝い』という名目で整備室に出入りさせてもらっているが、ほとんどひとりで修理したスキッパ―や蒸気バイクもある。
「それじゃ、俺は先生のとこに行くから」
アルトゥの仕事に感嘆している現場の主任にそう告げると、彼は整備室を後にした。
アルトゥは、毎週の休日や、たまに仕事の終わりに時間が空いた時だけ、昔の自分――グラバールの蒸気機関技師としての自分に、戻ることができるのだった。
「あ、先生」
「ん? なんだい、アルトゥ君」
アルトゥに声を掛けられ、先生と呼ばれた男は顔を上げた。アルトゥは、手に数枚の紙を持ち、そこに書かれている文章を読んでいる最中だった。彼は読んでいた文章の一節をピッと指差した。
「ここ、間違ってる」
「何っ」
先生は慌ててアルトゥから紙を奪い、文章を注視する。アルトゥが間違えている部分について説明すると、先生はあちゃー、と言って頭をかいた。
「そうか、そうだね、うん。これは修正しないと……」
先生はぶつぶつ言いながら机上のタイプライターに新しい紙を設置して、文章を書き直し始める。
「論文って書くの面倒くさいよねー。どうして研究だけしてちゃいけないんだろう……あっ、また間違えた!」
「先生、落ち着いてよ」
慌てる先生をアルトゥが諫めた。良い人ではあるのだが、この先生は少し、そそっかしいところがあった。
先生とアルトゥは蒸気科学ラボで出会った。アルトゥが特務局員の仕事の合間に、蒸気科学でできた機械たちの整備・修理をし始めた頃のことだ。ある日、いつものように機械修理をしていると、整備室に先生がやって来て、アルトゥに言った。
「すごい腕のいい整備士……いや、蒸気科学技師が来たって聞いたんだ」
その時の先生は目をきらきらさせていた。そして、アルトゥが整備・修理したスキッパ―や蒸気バイクを見て、彼の技術を認め、助手にならないかと誘った。アルトゥとしても、蒸気科学の勉強が出来るのは願ってもないことだった。結果として、アルトゥは今、先生の助手として研究を手伝いながら、蒸気科学についての知識を深めていた。
「スキッパーを大型化するためには、材料の軽量化が必要だよね……」
新しい材質で作った部品の試作品を確認しながら、先生は呟く。うーんと唸って、彼はアルトゥを見た。
「アルトゥくん、どう思う?」
「こっちの部品はもう少し大きくした方がいい。厚さはもっと薄くする。それから……」
アルトゥは次々に改善点を指摘していく。先生はアルトゥの発言のメモをとった。
「ふむふむ……。ありがとう、アルトゥ君! これでまた開発が一歩進むよ!」
「いや、別に……」
喜んでいる先生を見て、なんだかむず痒くなり、アルトゥはいつもより一層ぶっきらぼうな調子で答えた。
日が傾く頃、今日の助手としての役目をアルトゥは終えた。帰る途中で受付を通り過ぎようとすると、朝、ラボを案内してくれたお姉さんが少し困ったような様子で手元の何かをいじっていた。
「うーん、どうしようかしら……」
「お姉さん?」
アルトゥが声をかけると、お姉さんが振り返った。手には懐中時計を持っている。
「あ、アルトゥくん、お疲れ様。今日のお手伝いは終わったの?」
「うん、そう。お姉さんは、どうしたの? 何か困ってるみたいだけど」
「時計が動かなくなっちゃって……」
そう言うと、彼女は手のひらのなかにある懐中時計をアルトゥに見せた。時計の秒針が止まってしまっている。
「ちょっと貸してくれる?」
「ええ」
お姉さんから承諾をもらうと、アルトゥは時計を受け取り、内部を確認した。どうやら歯車同士が噛みあっている部分に、塵か何かが挟まってしまっていて、動かなくなっているようだった。
「直ったよ」
中を軽く掃除した後、アルトゥは時計をお姉さんに返した。時計の針は、きちんと時刻通りに時を刻んでいる。
「ありがとう! とっても助かったわ。……アルトゥくんってすごいわね」
「いや、大したことはしてないよ……」
お姉さんの嬉しそうなとびきりの笑顔を見せられ、アルトゥは決まりが悪そうに眼をそらした。今日はなんだか感謝や笑顔を向けられてばかりだ。そういった暖かい感情を向けられることに、少年は慣れていなかった。
受付のお姉さんはアルトゥに感謝して、「今度何かお礼をするわね」と言って、立ち去った。彼女と別れた後、アルトゥは自分のポケットに入れている、壊れたままの懐中時計をそっと握りしめた。
蒸気科学の技術や、研究・開発は発展途上だ。科学の力を利用した機械や道具は、これからもたくさん生み出されるだろう。少年であるアルトゥには、学ぶべきことがまだまだあった。
スキッパーひとつにしても、構造は繊細だ。メイルアーツの改良や、新規開発も活発に行われている。新しい蒸気科学の結晶の誕生を見たり聞いたりすると、アルトゥはその可能性に興奮した。
そして、構想のみで、まだ誕生していない蒸気科学の機械たちにも、アルトゥは思いを巡らせた。大型化したスキッパーや搭乗型の歩行重機、武装ウォーカーや無限軌道式戦車の完成した姿を見てみたいと思った。
また、アルフライラには蒸気科学に関する様々な機関や施設が存在している。それらが保有する未知の技術を、アルトゥは全て吸収し、自分のものにしてやろうとも考えていた。
それもこれも全て、アルトゥ自身が持つ野望――最高の『右腕』を創り、最高の蒸気機関技師になるためだ。
家に帰りベッドに倒れ込むと、アルトゥは義手である右腕を天に上げて見つめた。アルトゥの義手――これは《国際郵便機構》の特務局員になった時に支給されたものだ。蒸気機関技師の道が絶たれたと絶望した時に、特務局員になれば義手が貸与されると知り、縋すがる思いで公社に駆け込んだ、あの日のことを思い出す。その後、無事手続きが終了して義手を手に入れ、日常生活で支障が出ることはなくなったものの、蒸気機関技師としては、この『腕』で自分の能力を全て発揮するまでには至っていなかった。
――今ある右腕の真鍮の義手、こんな感覚の鈍いなまくらじゃ、俺の本来の技術にはついてこれない。
南洋の国際都市に来てから、アルトゥの決意は一度も揺らいだことはない。
「このアルフライラで、右腕と一緒に失った、俺自身の【黄金比】を取り戻す」
握りしめた義手の拳が、アルトゥの強い意志に応えるように、きらりと輝いた。
千梨/ホワイトレター/(C)アルパカコネクト
上記作品は、アルパカコネクト様のPBW『ホワイトレター』で納品し、公開されているものです。
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