有師が「信と云い血脈(けちみゃく)と云い法水(ほっすい)と云うは同じ事なり」と仰せの如く、相承とは師弟子の法門の上に立つ信の事であり、弟子も己心の一念に於いては師と同じものを本来所持している事を、一往教の立場を以て、師の側から相承(そうじょう)という。一閻浮提惣与(いちえんぶだいそうよ)もこれと同じで、師弟一箇(していいっか)して出現する本尊を一往師の側から惣与というのである。
 三大秘法抄に「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界(じゆうせんがい)の上首として日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決相承(くけつそうじょう)せし也」とあるが、この口決相承も同じ事であって、直接師の口から伝えるのではない。還滅門の己心の一念に於ける話であって、時空を超えたものである。師弟相寄って本尊を成じ、刹那成道するというのも全くこれと同じ意味である。
 代々の御相承も現実の金口嫡々(こんくちゃくちゃく)というような相承よりは、互いの己心の一念三千の上の相承が本意である。面倒な事務的なものではなく、無言の相承こそ真実といえる。血脈相承とは直授(じきじゅ)が本義であり、例えば血脈の如く、例えば写瓶(しゃびょう)の如きものである。したがって何時、何処で、どのように受けたかという事は愚な話であるといわねばならない。
 また宗の内外(ないがい)から途中で血脈が切れているとか、御相承がなかったとかという様な事がいわれているが、御相承などは本来内証にかかわるものであり、外相にこだわるのは低次元な争いである。
 天台にも霊山聴衆(りょうぜんちょうしゅう)とか、直授(じきじゅ)とかいう事がある。これは所謂内証相承であり、この内証相承こそ真実の相承であると考えなければならない。
当家の三秘即一の相承も当然内証相承でなければならない。教相に相承を立てることは最も慎まなければならない。師弟子の法門もここに極まるというべきか。
但しこれも貫主に信があっての話である。信が云云されるような貫主と、法門としての直授相承とは全く無縁である。この時にはその半分を領掌している弟子が師弟子をただして法門をとりもどさなければならないのは遺誡(ゆいかい)の通りである。

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