明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る

宗祖(しゅうそ)は開目抄(かいもくしょう)に「日蓮といゐし者は去年(こぞ)九月十二日子丑の時に頸(くび)はねられぬ。此は魂魄佐渡(こんぱくさど)の国に至りて云云(うんぬん)」と、御自身の事を仰せである。これを以(もっ)て当家では宗祖の発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)とする。然(しか)るに龍之口法難(たつのくちほうなん)を指(さ)して宗祖が発迹顕本したとするのは何(いず)れの文証(もんしょう)に依(よ)るかなどと聞くのは、その事自体愚(おろか)であると云わねばならない。宗祖に発迹顕本と受けとれる様な文証があるとしても、発迹顕本の刹那(せつな)そのものについての文証などある筈がない。天台の自解仏乗(じげぶつじょう)に文証を求めるのと同じで、文証のないところが宗祖独自の境界(きょうがい)と云えるのである。
 そもそも宗祖が龍之口に於いて発迹顕本したと思うのは弟子の得分(とくぶん)であり、これを師弟子の法門(しでしのほうもん)と云う。「魂魄佐渡に至る」を単に文章の綾として見るか、この一点を捉えて宗祖の発迹顕本と考えていくかでは、結果として天地雲泥の開きがある。この一文を法門として捉えるなら、そこに一宗の根源を求める事も出来る。ここに御書の読み方の重要性がある。
 法門の世界に於いては文証の介在する余地はない。あるのは感得だけである。感得は受持と同じ様な意味であり、文の底に秘して沈めた法門を知るためにはこの感得以外に方法がない。弟子が師の内証、即ち文の底に秘して沈めた法門を感得した時、そこに戒壇(かいだん)の本尊を感じ、本仏日蓮大聖人を見る事ができる。自解仏乗(じげぶつじょう)というのもまたこのような境界(きょうがい)を云うのであろう。
 かかる意味に於いて感得は師弟子の法門の中にしか存在しない。而(しか)も師弟子の法門は文証の通用する流転門の世界ではない。唯仏与仏乃能究尽(ゆいぶつよぶつないのうくじん)の還滅門(げんめつもん)の世界での話である事を知らねばならない。

阡陌陟記の中に、魂魄は629あります。
感得=受持 受持は402
境界210
師弟相寄って成じる処の法門、師弟子の法門は364
川澄勲全文集で、文字検索しながら読みすすめてみても面白いです。

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