本尊・本仏


 正宗要義(しょうしゅうようぎ)における本尊観・本仏観、即ち宇宙混沌(うちゅうこんとん)の時、その大霊(たいれい)である本法を悟った自受用報身(じじゅゆうほうしん)が、鎌倉時代に生まれた日蓮であるというような事は、少なくとも六巻抄の中にはその片鱗(へんりん)すら見当らない。当家の云う本法とは、釈尊の因行果徳(いんぎょうかとく)の二法を自然(じねん)に具足(ぐそく)した一言摂尽(いちごんしょうじん)の妙法、即ち上行菩薩所持(じょうぎょうぼさつしょじ)の本法を指して云う。どこにも宇宙の大霊などと云うが如き真言的な要素はない。この上行所持の本法とは文底秘沈の一念三千、つまり久遠名字の妙法と寛師は説かれているのである。これらは全て左尊右卑(さそんうひ)の還滅門に立てる処の法門である。
 ただこのような本来の本仏・本尊観を以て、下化衆生(げけしゅじょう)、衆生教化(しゅじょうきょうけ)に向う時、そこに教、即ち下(した)に被(こうむ)らしめる為、一往右尊左卑の立場を取るのは至極(しごく)当然の事である。この意味では「御本尊はありがたい」式の方法でもよいであろう。しかしこれはあくまで宗教分の話であって、これが宗旨分として昇華するとき、そこに既に本来の宗旨分が忘れられ、右尊左卑の立場を取って説かれたものが、そのまま左尊右卑の法門として他宗門と対する事になると、流転門にはあり得ない法門が出来上ることになり、流転・還滅両門から説明しがたい法門となる。これが現在の本尊観・本仏観であるといわねばならない。随(したが)って本来当家の法門書である御伝土代、化儀抄、文段抄、六巻抄等をもってしても結局何ら解釈がつけられないという事になるのである。
 もともと少数の而(しか)も信に固った信者を対象にした宗教分が、こんどは極多(ごくた)の信者を背景に宗旨分として他宗(たしゅう)に向う。この時到底他門として受け入れられるようなものでない事は云うまでもない。信者の数が増えるに従って、法門を左尊右卑の原点に還すことが用意されていれば、今程他から異義をはさまれる事もなかったに違いない。独一(どくいち)の法門が信者対象のまま宗外(しゅうがい)に出た為に、恐らく独善に陥ったものと思われる。今日(こんにち)の管長の横暴もすべてもこの独善に端(たん)を発している事はまちがいない。速やかに独善を捨てて、流転還滅の時をあやまたず、本来の本仏・本尊観に立ち還るべきである。さすれば貫主本仏的(かんずほんぶつてき)な現在の状況を打破する事もできるであろう。
 宗旨を法前仏後(ほうぜんぶつご)に建立している大石寺としては、決して管長一人に権力が集中するはずがないのである。この現実をなくすにはまず自らの法門の立脚基盤を明らめる事が必要であろう。これなくして今の問題の根本的な解決策はありえない。力を以て力に対抗すれば力の強い方が勝つ。しかしどんなに力が強かろうと法力には及ばない。法を以て力に対さなければならない。それにはまず法門の再建が肝要である。
 法門を再建するとき何がもっとも大事であるかというと、「仏法を学せん法はまず時を習うべし」の如く仏教の時ではなく、仏法の時を知る事が不可欠である。仏法の時とは何か。それは流転と還滅、己心と外相のたて分けを知るという事である。仏教の時とは現実の時間、流転の時である。還滅に於ける時とは、己心の一念である。仏教に於ける流転の時を以て、仏法に宗旨を立てようとしてもどだい不可能である。

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