化儀の折伏
本尊抄文段に「今望化儀折伏以法体折伏仍名摂受也」(いま、けぎのしゃくぶくにのぞむにほったいのしゃくぶくをもってなおしょうじゅとなづくるなり)とある。これは本尊抄の「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って云云(うんぬん)」の文に対する解説であるが、これは寛師の考えではない。他門の人師(じんし)の本尊抄の注釈である。この説に対して寛師は「或復兼判順縁広布時歟云云」(あるいはまたかねてじゅんえんこうふのときもはんずるかうんぬん)と注し、これが誰かわからないが、化儀の折伏・法体の折伏即ち摂受に対する寛師の解釈である。
ここに云う「順縁広布の時」とは所謂(いわゆる)釈尊仏教の事を意味している。つまり釈尊仏教の摂折の考え方でいけば宗祖の法体の折伏も摂受であるという意味である。しかし当家は法門を逆縁の広布に立てている事を知らなければならない。ただ逆縁の時の折伏のあり方については寛師はここでは何も云われていない。しかしともかく化儀の折伏に望んで宗祖の折伏は摂受であるとする説に対しては、それは釈尊仏教の話であると一蹴された事は文章からいって確かである。
ところが創価学会では、この何れの師ともわからない説を寛師の説と勘違いして、ここに学会の折伏基盤をおいて、学会こそが化儀の折伏を現じているとしているのであるが、いかにも学会らしい初歩的なミスである。
さて末法の折伏のあり方とは不軽菩薩(ふきょうぼさつ)の行をする事である。この修行のしかたに二(ふたつ)がある。即ち師の修行と弟子の修行である。順逆(じゅんぎゃく)で云えば師ば順、弟子は逆である。師の折伏とは宗祖の一代の行であり、安国論を以てその代表とすべきものである。この師の折伏、安国論の姿勢をそのまま弟子が行ずるという事になると、師弟の混乱であり、時節(じせつ)の混乱という事になる。
師とは修行の備わったことを意味し、弟子は未修行である。未修行の弟子が師と同じ折伏をする時、師弟の混乱が始まる。全く僭越(せんえつ)であるといわざるをえない。未修行のものが師を称する事は、理即(りそく)の凡夫が仏を称するのと同じである。師弟子の道をただす、これが当家の法門である。
寛師の文段抄における弟子のあり方は、折伏即ち宗祖の安国論を自己に向け、修行を積む事によって徳を備え、その徳によって他(た)を教化する事を示している。無言の徳を以て折伏する、これが弟子の最高の折伏である。したがって己心に折伏を行じ、外相は徳を以て教化即ち一往摂受の形をとるのである。ここに云う摂受とは世間に迎合(げいごう)する事ではない、折伏の上の摂受である。ここに摂折同時の化他(けだ)が示されるのである。
文段抄の構成の上に於いて、弟子は師の安国論を己心に受けとめ、鎌倉当時の師の修行を今日の弟子の修行の糧(かて)とする事を明かしているのであるが、ここに文字だけを追えば単なる御書の解説書としてしか見れない文段抄の読み方の重要性がある。寛師法門の深さの一端を知る事ができる。
ともかく弟子が誤って師の修行を取れば、結果は当然下剋上という事になる。本尊抄文段を我田引水ではなく、素直に読み、寛師の判定の意味をよく理解せねばならない。この数行についての寛師の判断はわずか数字である。ここに勘違いした理由があるのであろうが、全てを寛師の文とすれば、道が自ら曲がるのは当然である。文の底に秘められた弟子の修行のあり方を引き出すための、準備をされたまでというのがこの数行の真意であろう。
文段抄であるが故に全部が寛師の文であり、意志であるとするのは、あまりにも幼稚な誤謬(ごびゅう)である。それにしても宗門でこのような初歩的なミスを野放しにしているのは、いったいどういう事であろう。まさか学会と同じ間違いをしているのではあるまい。
師弟子の混乱と時節が法門を狂わしめる元凶である。管長及び学会の暴走もここに尽きる。師弟子の法門とは、戒壇の本尊を中心として展開する法門、即ち第三の法門の謂(いい)である。因果倶時、(いんがくじ)師弟一箇の処を本尊というか。
以 上
あとがき
巻一(まきいち)は一往ここで止めることにする。続いて今日の問題の根本的な原因である法門の乱れについて、時の混乱、正宗要義の問題点、六巻抄各巻の読み方等、巻二、巻三と書いてゆきたいと思う。