六巻抄の大綱


 寛師は第一三重秘伝抄(だいいちさんじゅうひでんしょう)の冒頭にまず開目抄の文底秘沈の文を挙げ、これを六巻抄の総題とし、この文の底を詮ずる事によって、日蓮大聖人及び戒壇の本尊の中に於ける師に当る部分を闡明されている。以下全て己心の一念三千の上に於いて論ぜられていることを銘記することが肝要である。
 当家に於いて本門事の戒壇という場合、己心の上の仏国土に建立されるべき戒壇である。この意味で従来使用していた国立戒壇も己心の仏国立戒壇と解(かい)さなければならない。ところがこれが己心から抜け出ると、本尊・題目も自ら己心の外へ出ることになる。もともと信の上の仏国土に建立される筈の国立戒壇が信を離れ、己心の外、即ち外相に置きかえられて考えられる時、本来の宗義とは似て非なる日本国立戒壇論という田中智学流の異義が生じてくる。この時既に三秘は各別となり、建築物としての戒壇建立の要求へと進むのである。こうなるともはや三秘同時の建立ではなくなってしまう。しかし法門の上に説かれる戒壇は三秘相即であるが故に三秘同時の建立でなければならない筈であって、これをまた刹那成道とも云うのであるが、三秘各別の日本国立戒壇論には決して刹那成道はありえない。建物としての戒壇は刹那に建立する事は不可能だからである。戒壇を建物として考える時、それは既に己心の外にあるが故に流転門といえる。本尊も題目もこれと同じである。
 また久成(くじょう)の定恵出現して、幾百年後に至って始めて戒壇が建立されるという考え方がある。これもまた完全に流転門の戒壇であって、三秘同時の建立を唱える還滅門の領域ではない。そしてこの戒壇建立に引き続いて、いつとも知れぬ広宣流布を目ざして長い年月を送ってゆく時、果して一人残らず信仰するという広宣流布の時があるであろうか。勿論宗旨は還滅門に於ける己心の広宣流布を本義とするとしても、宗教分としての一人一人の弘通(ぐづう)を否定するのではない。けれども宗旨を忘れ、宗教分のみの広宣流布を追求するとすれば本末転倒といわねばならない。要するに問題は滅後末法の真実、即ち宗旨分の広宣流布がどこまで把握されているかという事である。
 而も三秘同時の建立といえば、客殿がその意味を持っているし、御宝蔵の蔵の字には、字の中に三秘同時建立の戒壇の本尊の意味を含められている。また御授戒もそうであるし、朝々(あさあさ)の丑寅勤行(うしとらごんぎょう)も同様である。更に御会式にしても三秘同時建立である。大小様々の姿に表わされてはいても、内容が全く一である事は云うまでもない。
 さて広宣流布といえば、昔は正月十六日と盆の十六日の地獄の釜の蓋の開く日を広宣流布の日と定めて、一人残らずという広宣流布を祝福していた。正月には富士宮から万歳が来て不開門(あかづのもん)の前で広宣流布を祝い、次に二天門の左裏で、御宝蔵に向って一回、同じく丑寅(御先師の墓)に向って一回、都合三回祝福をしていたようである。この日は云うまでもなく不開門の開く日で、開く事は即ち勅使(ちょくし)が参向(さんだい)したのであり、従って客殿には紫宸殿(ししんでん)の御本尊がかけられ、天皇も信仰されたことになる。所謂王臣一同(いわゆるおうしんいちどう)広宣流布を祝福した事を意味し、また盆の十六日は地獄の釜の蓋の開く日であり、天下に一人(いちにん)の罪人のない日、これを捉(とら)えて天下万民の広宣流布を祝ったのであろう。前者が王臣一同、後者は天下万民の広布を即時に実現していると考えねばならない。
 毎年その年の広宣流布を前もって実現する事は己心の広布である。この己心の三秘建立、広宣流布が外相へ転じ、己心が失なわれる時、民衆仏法から色相荘厳(しきそうしょごん)の貴族仏教へと変身するのである。今日の混乱も全く法門が己心から外相へ出た結果であるといわねばならない。己心に法門が建立されれば独一である。しかし一歩でも外相へ出ると、それは独善でしかない。独善はもはや法門ではない。大石寺法門は全て己心に建立されている事をまず覚知する必要があるようだ。
 ところで六巻抄は、六巻でありながら実は七巻である。七巻とは六巻抄の最後にほのかに見える弟子分の処を指す。この六・七は日興上人の領域であり、現実に日興上人は六日の終り七日の初めに遷化(せんげ)されている。また客殿の猊座(げいざ)の位置も六・七の中間である。この数字からしても六・七が師の意味である事はいうまでもない。この六・七は開山日興上人に於ける在滅の中間にあたる。宗祖は十二・十三に在滅の中間があり、ここに云う中間とは即ち丑寅の成道の意である。この処にも何故寛師が六巻抄としたか、その意味がわかると思う。
 次に六巻抄の構成を云えば、前述の如く六巻抄は文底秘沈の一念三千を詮ずる事を総課題としている。三重秘伝抄に於いてはこの一念三千を第七義種脱相対(だいななぎしゅだつそうたい)の一念三千の処で久遠名字の妙法として現わされるが、「当体抄・勘文抄今且(いましばら)く之(これ)を秘す」とあって、未だその正体を明らかにしていない。これが明らかになるのは第五当流行事抄(だいごとうりゅうぎょうじしょう)まで待たねばならない。
 三重秘伝抄は文底秘沈の一念三千を十義(じゅうぎ)に開いて説明しているが、その第十義は末法流布の大法を示すのである。第十義の最後、時節(じせつ)の処が「撰時抄云々」とされ、ここに秘された撰時抄の文が現れるのは、第二文底秘沈抄を通りこして第三依義判文抄の冒頭であり、この撰時抄の広宣流布の文、即ち遠霑妙道(おんでんみょうどう)が第四・第五・第六と通じて流れ、第三以下の課題となっている。報恩抄に説かれる「日蓮が慈悲」を寛師はこの遠霑妙道を以て示されたのであり、この慈悲はすでに報身如来の慈悲である。なぜならば永遠に絶える事がないからである。そしてこの慈悲を衆生が受けとめる時、日蓮大聖人といい、戒壇の本尊といわれる姿を以て現れるのである。日蓮大聖人とは弟子の立場から嘆(たん)ずる言葉なのである。
 さて依義判文抄は三重秘伝抄を受けて、「三学倶伝名曰妙法」(さんがくぐでんみょうあつみょうほう)によって、久遠名字の妙法とは戒定恵の三学である事を示し、これによって第三では戒を説き、第四では本尊、第五の終りに近づいて当体抄勘文抄の全文が明らかにされる時、久遠名字の妙法は戒壇・本尊を摂した題目としてその正体が顕わされる。ここから更に第六に至って宗開三の三祖を以て三学にあて、次いで三衣にあて、その用(ゆう)を説いている。何れも久遠名字の妙法である事に変りはない。
 そこで文底秘沈抄の位置付けをいえば、此抄(このしょう)は文底秘沈の一念三千が依義判文抄以下で三秘として説かれていく前段階として、基礎知識の為三秘の名義を一往示したまでで、その為に態と定戒恵の順で説かれている。本尊は三学倶伝の妙法であるが故に、常に戒定恵でなければ本尊として昇華する事ができない。したがって文底秘沈抄とは一念三千の文の底に秘められた定戒恵の三について、個々の名義を説明した単なる注釈書と解さなければならない。この故に寛師は遠霑妙道の流れからはずしたのである。
 仮にここに三秘を建立すると、当然三秘各別となる。定戒恵であるが故である。日本国立戒壇論にしても、久成の定恵出現して幾百年後に戒壇が建立されるというような理論は、共にこの文底秘沈抄に三秘を建立した結果の誤りである。読みの浅さが寛師の意とは全く逆に出た見本であるといえよう。遠霑妙道の流れからはずれ、戒壇の本尊に決して昇華する事のない文底秘沈抄の三秘を以て、日蓮大聖人・戒壇の本尊と解してみても、それは解者の読みそこないとしかいいようがない。
 真実の本尊は第六当家三衣抄の最後に至って、弟子がわずかに登場する、これを文段抄を以て補うとき、初めて師弟子が現われ、師弟一箇して大聖人・戒壇の本尊となる、これが寛師の意図した処である。文底秘沈抄とは文底秘沈の三秘の名義を説明した注釈書である事をまず以て知っておかなければならない。
 そこで今、宗門唯一の最高権威を持つ法門注釈書である正宗要義(しょうしゅうようぎ)を見ると、文底秘沈抄は宗旨論であるとしている。宗旨を論じている抄であるという事は三秘の根源をここに立てているのだろうか。ちなみに当家三衣抄は資具論であるという。もし本気でこのように考えているとすれば見当違いも甚しい。定戒恵によって各別に説かれた三秘を以て、戒壇の本尊の要素である戒定恵に強引にくっ付けてみても、これは決して戒壇の本尊として昇華する事がない。かかる報身如来の慈悲の無い本尊・三秘は他門と何ら区別がない。文底秘沈抄は三秘各別を説いている。しかし戒壇の本尊は三秘即一でなければならない。どの様な方法をもってしても各別を即一とし、相即とする事は不可能である。三秘各別の文底秘沈抄を以て、当家の宗旨論としている処に今の大石寺法門の最大の矛盾がある。昨今の問題の本当の原因はここにある様な気がする。
 余談になるが、宗教は勿論の事、一人の人間に於いても自己矛盾には極端に弱い一面をもっている。他人に対しては恫喝(どうかつ)は利いても、自心に対しては決して通用するものではない。こうした自己矛盾が崩壊へつながる最大の要因である事が多い。互いに警戒すべきは自己矛盾である。
 さて話題を六巻抄へもどすと、当流行事抄の終りに近づいて三重秘伝抄で秘された当体(とうたい)・勘文(かんもん)両抄の全文が示される時、同趣一根して久遠名字の妙法が現じ、戒壇・本尊を摂した題目が現われる。これは三千が一念に収まる姿であり、これに対して当家三衣抄は姿をかえて一念が三千に開く姿をとっている。ここにまた重要な示しがある事を知らねばならない。
 当流行事抄に示された題目は、既に五字七字の意味を持っている。これを一言摂尽(いちごんしょうじん)の妙法という。この一言摂尽の妙法とは熱原三烈士(あつわらさんれつし)の最後の口唱の題目であるともいわれている。この口唱(くしょう)の題目が縁にふれて戒壇の本尊と昇華していったとすれば、これは報身如来の慈悲の徳用、遠霑妙道の功用(くゆう)とする事もできる。
 文底秘沈の一念三千の法門は、三学に始まって更に戒壇・本尊を摂してここに題目と現われた。これは三秘相即の題目そのものであり、当体・勘文両抄に縁じて明らめられた久遠名字の妙法である。そしてこの久遠名字の妙法である題目が、宗開三の三祖に縁じて、そこに大石寺独自の本尊が明らかにされ、法をとれば戒壇の本尊、人をとれば日蓮大聖人となって現われる。この本尊の内、その師の部分について詳細に説明してあるのが当家三衣抄であり、既に文段抄に説かれた弟子分と共に、師弟一箇して戒壇の本尊と現われ、日蓮大聖人と現ずるのである。
 ところが現在の宗門のように、本尊が管長一人に摂まるという様な状況になると、そこに種々様々の権力が生じ、俗身(ぞくしん)の貫主本仏論という様な異流義が横行するようになるのである。これらはまさに流転門の極みである。己心の法門が還滅門という本地を離れて、外相だけが強調されてくると、左は右、即ち民衆仏法は色相荘厳(しきそうしょうごん)の貴族仏教となり、最低は最高、即ち教弥実位弥下(きょうみじつぎみげ)が教弥権位弥高(きょういごんいみこう)となって、本末転倒する事になる。現実には東南の空に出る明星は、法門では東北の隅(すみ)の地下(ぢげ)となる。流転と還滅が真反対になる事は本尊に示されている通りである。
 大石寺法門は本来還滅に立った法門である故に、今こそ本地を再確認することが最要である。時のしからしむる処というべきか。これが師弟各の得分ということではなかろうか。六巻抄にしても語句の注釈だけでは深い意図は伺い知れない。何をおいてもその大綱をつかむ事が先決である。

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