町家、最後の夜に
今は5月31日の午前2:00過ぎ、この家で寝泊まりするのは今晩が最後になる。
明日日中には友人と2人で引越し作業をする。
荷物はまだ完全にはまとまっていないが、捨てるべきものの大半は昨晩思い切って捨てた。
最初は2人で住み始めたこの家、訳あって後半は1人で過ごした。
いろんな人がこの家を訪ねてくれた。
僕にとっては産まれて初めての戸建て暮らしだった。
階段もエレベーターもなく、引戸をガラガラと開けてはいる玄関も初めて。
出来ることならば、もっともっとこの家で過ごしたい気持ちもあった。
楽しい思い出ばかりではない。
暮らしというのはそういうものだ。良い時も悪い時も、雨漏りもすればネズミだって出るし、人間も喧嘩もすれば泣きっぱなしの日もある。
丁寧な暮らしを、当たり前の日々を大切に、コツコツと営みを積み上げて、そういった類のことをこの家で実践したかった。しかし、僕には足りないものだらけで、いろんな気づきを与えてくれた同居人にも迷惑をかけてしまい、やがてこの家に1人になった。
そんな極私的な記録として、この音源をこの場所で録音できたことは、これはとてもしあわせなことなのかもしれない。
築72年、木の温もりに溢れ生活の息吹が染み付いた天井の低いこの家で、得たもの、失ったもの、その全てを記録するかのようにして、退去する月にこの音源は完成となった。
録音した一階の居間は今、搬出を待つ荷物達が雑然と畳の上を転がっている。
なんだろう、名残惜しいというかなんというか、なんか居ても立っても居られなくなって闇雲にこんな時間に投稿しているのだが、まとまりもなく何が言いたいかも見えない文章で申し訳ないのだけど、
振り返った距離と進行方向の距離とが今ちょうど同じ感じで、感覚的に過去と未来が同じ質量で存在する感覚に陥っているんです。
今まではそんなことなかった。
引っ越すタイミングで思い出を振り返りセンチメンタルになることはあったが、いつもやってくるそれとも違う、なんだろう、
リアルに折り返し地点なんだ、
という感覚がはっきりとあるのだ。
それだけ現世を生きてきたというか、まだまだ先は長いんだろうけど、未来だけが野放図に拡がっていると思い込んでいた20代の頃とは明らかに違うものに支配されている。
ちょうど引越しの荷物整理のときに今日、A4サイズの無数のクリアファイルがいろんなところから出てきて、いらない書類などを選別していたらば、コレが出てきた。
11年前、シスターテイルとして活動していた頃のリリースニュースやレビューの掲載文を当時のレーベルの方が印刷してくれたものだ。
インタビューの自分の喋ってる内容も、レビューに書かれていることも、なんのことはない、今のスタンスと大差がなかったのだ。
自分あの時からこんなこと言ったり考えてたりしてたのかぁと。
それってでもどうなんだろ。
進歩してないってことなのかな。
大筋は変わらないという所謂ブレないというやつなのか、違う。
あの時思い考えていたことをちゃんと実行出来ていないからまだそれを引きずってるのかもしれない、と自らを推測して、急にゾッとした。
もしそうだとしたら、こんなにしょうもないことはない。
ネクストフェーズに進めない自分の言い訳だけをこの10年間もしてきたのか?僕は。
そんなわけないよな。
でも、犬も食わないような歳になった今だからこそできること、わかったこと、そして周囲の環境の変化、まるごと含めて、
いま音楽を続けていられているならそれはたぶんアリなんだ
と考えるようにした。
音楽を続けていることで得たものはもちろんあるんだけど、失くしてしまったことが本当に増えた。
もっと自分は賢いやつだとか思っていたが、弩級のアホだった。
それでも世界は続いているし、おかげさまで未だ首の皮一枚で繋がっている。
これを「万歳じゃないか!」となんとか捉えようと試みている深夜2:30。
居間の儘(今のまま)を録音したこの西陣の町家とも、いよいよ明日でお別れ。