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note再開〜FBで書いてた過去のblogを転載します〜

おばんです。
放置していたnote、どう使おうか迷ったままかなりの月日が経ってしまいました。

どうも、それが僕です。

ちょっと思いたって、Facebookに過去に投稿したblogをこちらに転載してみようと思いました。
Facebookは友人限定の完全非公開、更新頻度もTwitterに比べたら雲泥の差、たまに上げると長文の投稿になってしまうし内容もどちらかといえば社会的なことを取り上げる事が多い。

思ったことをただ書きなぐったような文章でもたまに褒めてくださったりすることもあったりして、ただ鍵付きなので少ない知人にしか届かず、せっかくならこのnoteに言いたいこと書いちゃえと思って、まずは過去の投稿をこちらに転載する形で再開してみて、また新たに投稿するものに関してはFBとnote両方で更新していこうかなと思います。

果たして続くのかな、、まあまあ。

以下、2019年4月10日に書いたblogです。

↓↓↓↓↓↓↓↓

....音楽に携わっていて1番気にかけていることは「視点」だと思うことが多々ある。

自分はこう思うから、こう感じるからこうだ、という一人称視点のみで相手の音や唄に呼応するのは微妙に違う、、と書くとややこしい気がするけども、
シンプルに言えば、
「鳴らされた音に対して瞬時に多角的に判断して音やリズムを構築する」
ということが重要で、予め用意したものをハメていくのはかえって手間を食う。
相手が思う8ビートが自分の思う8ビートだとは限らないし、同じ白玉にどこに休符を感じてるのかが相違しているだけで全く別の曲になってしまったりするアレです。

自己主張はもちろん大事だし、そこのぶつかり合いで産まれるモノにひとりでは出せない奥深い豊かさが生じることもよく知ってるので、これはあくまでひとつの方法論でしかないけど、自分は"その時々に応じていろんな角度から見る"ということを癖つけている。なるべく瞬間で。

何が言いたいかというと、
自分は定点を持たないドラマーとして(もちろん何でも出来るわけではないしそんな技術もないし基礎も疎かなのでそれなりにクセも強いと思うのだけど)、

・視点を固定化させないこと
・始まる前からきめつけないこと
・広い視野を保つ為に力を抜くこと

この3点をある程度意識してドラムというところから唄や音に向き合っています。

これは音楽だけでなく、他の様々な物事にも通ずることだと段々思うようになり、勿論全てにそれらの概念が適応されて完璧にそのモードで対応出来ているわけではないんだけど、
例えば昨今のニュースやそれにぶら下がるコメントなど見ていると、如何に固定化された視点で物事が解釈され、それらがあらぬ方向で伝搬し、無視出来ないレベルで様々な影響をもたらしているか、ということを強く感じるようになった。

ルワンダ虐殺における"ラジオ"の役割のように(あそこまでの悲劇がもたらされるとは思わないまでも)、システムが余白を奪い、視点を固着化させ、みんながそれを疑わなくなる、そしてそれらは初めから巧妙に操作されている、、
大袈裟かもしれないけど、どの時点で気がついて、声をかけ、最悪の事態を回避するのか、回避できるとしたら自分以外の誰まで巻き込めるのか、、、視点を持てないまま"気づき"が遅れれば遅れるほど結果は悲惨なものになってしまう。

下記のリンクの記事を読んで、あの太平洋戦争ですら"視点"の違いでここまでパックリと印象に違いが出るものかと思い、なんとなく思ったことをつらつらと書きました。

どちらが正しいではなく、
あるひとつの出来事に対してここまで印象や認識が乖離してしまうのは何故か、
自分や大切な人、これから起こるかもしれないこと、
それを事前に防ぐ方法がその手前にあったとしてそれについてどのように考え行動ができるのか、
連帯を持つ為に必要なチューニングが、、この認識そのものが人々の間で知らぬ間に大きく乖離していたとしたらチューニングどころではないわけで、、
だからこその"視点"、について考えさせられる名ブログだなぁと思って、長いんですけど興味深く読みました。

以下は記事からの引用なのですが、

「一応、相手の気持ちをそこねないように謝ってはみせたものの、ほんとうはきみだっておかしかったじゃないか、と社会ごと信じている日本社会の頑固さは、日本の致命傷になりかねない、と思う。」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/

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