頑張れじゃなく一緒に頑張ろうがいいとかいう話ではない。
“がんばれ”と言うのが嫌いだ。昔から。どうしても。
これは単純に自分が勝手に思っているものだから、頑張れと言われることも全然気にしないし、むしろ応援してくれていることへの喜びのほうが大きい。“がんばれ”というのは人と人を繋げる素晴らしい言葉だと思っているし、批判・批評をしたいわけでは全くない。ただ、自分が発する言葉に“がんばれ”という単語を含ませるのにはいつも抵抗がある。ただそれだけのことだ。「ふーん、そうなんだ。」くらいの気持ちで読んでください。
“がんばれ”を嫌いになったきっかけはある記事を読んでからだ。「精神病の人に頑張れと言ってはいけない」。今ではもうすっかり常識のようだが、人の気持ちじゃなく自分の行動を重視していた小さい頃の自分にとっては少し意外だった。励ますこと=良いことなのに、なんでダメなの。そう思っているうちによく分からない“がんばれ”という言葉を使うことに恐れを感じるようになった。使わなければ誰も傷つけない、そう思いその言葉を封印した。でも大学生ともなるとどうしても日常生活で“がんばれ”を使う機会は増えた。競走部でも“ファイトー!”という声が飛び交う中、自分も普通に言うようになった。バイト先でも、(チューターをやっているのだが、)授業の始まる前は“頑張ってください”というのが授業開始の合図のようになっている。
でも、それでもまだどこかに、“がんばれ”がひっかかる部分が自分の中にあるのだ。なぜだろう。ひょっとするとどうせ人は解り合えないと思っているからなのかもしれない。人は大抵何かしらで頑張っている。その頑張っていることに対してこちらから“がんばれ”という無責任な言葉をかけても、それは失礼なんじゃないかと思ってしまう。逆に、仮にその人が頑張れていなかったとしても、“がんばれ”という言葉に耳を傾けて頑張れる人はこの世にどれくらいいるだろうか。その人を全然知れていないのにテキトーなタイミングで“がんばれ”を使っても無駄だと思ってしまうのだ。無駄な言葉を投げかけてその人を傷つけるリスクは負いたくない。それなら俺は大切な場面で“がんばれ”を使いたい。
つい先日、体調不良と試験勉強で疲弊していた僕に親友が励ましの言葉をかけてくれた。「ゆっくり休みな」。おそらく彼は僕と同じ思考回路でその言葉を発したのだと思う。しかし、自分は普段“がんばれ”が嫌いなのに、疲れていた自分はその言葉に違和感を覚えた。どうしても頑張らなきゃならないときに頑張らなくていいと言われると逆につらい。そういう感覚だったと思う。“がんばれ”もたまにはいいな。ふとそう思った。
練習や大会で、短距離や中距離、長距離の人たちが意識を失いかけながら走る姿を見ていると、応援したくなる。だって頑張らなくていいって言ってもどうせ頑張るんでしょ。だったら俺は“がんばれ”って言うこと自体は好きじゃないけど、“ゆっくり休みな”って心の中では思いつつ、全身全霊の“がんばれ”を届けたいと思う。