ぼくにとって、文字は強い光
強い光は好きだろうか。
ぼくは、白色灯に晒され続けるとすぐに疲れてしまう。
人混みにいるとすぐに疲れてしまう人は多いだろう。
その理由として「情報量が多いから」と言う人たちを最近よく聞くが、
ぼくが人混みで疲れる理由はどうやら情報量の話ではなさそうだ。
人混みにいるからといって何か考えることが特段増えるわけでもなし、むしろすぐに疲れるから直感は鈍るくらいだ。
ではなぜ疲れるかというと、ぼくの感覚としては、都会にいるのと強い光に曝されているのではほとんど感覚が同じである、と言えば伝わるだろうか。
たしかに白色灯に照らされた部屋は、あらゆるものがくっきり見えるようになるから情報量自体も増えているのだろうが、
疲れたからといって目を瞑ってみても、まぶたを突き抜ける赤い光に疲弊してしまう。
つまりは情報量というより、強い光自体が、疲れる。
実家にいた頃、家を出るまでの一年間、電球が切れたことを契機に豆電球の自室で生活をしていたが、特段困ることもなく、母親に「変えたら?」と言われるのをなぜか頑なに拒んでいた。
そちらはまた複合的な理由な気もするが、
不便さの話を置いておけば、暗い空間の方がぼくは落ち着く。
(数学者オイラーが両目の視力を失ったときに言ったとされる言葉が好きだ。)
さて、ぼくは本を読むのが極端に苦手である。
一応多少なりとも文章を書いてはきたから、よく読書をする人だと勘違いされるが、ぼくは本当に本を読まない。(スキしている数少ない記事はちゃんと読んでいる)
本という「情報の宝箱」は好きなのだが、文字が苦手なのだ。
文字を介さず、情報をそのまま頭に入れてくれる手法があればいいのだが、、、。
「情報の宝箱」に対しての憧れは小さい頃からあり、読書で人生が豊かになることは常々感じていた。
しかしどうしても文字を読んでいると強い光に晒されている時のように疲れてしまうし、読むのも極端に遅いので、幾度となく挫折してきた。
とはいえ、別に疲れないために生きているわけではないので、たまに「よし!」と重い腰を上げ、挑戦してきて今に至るわけである。
古本屋で気に入った本を買っても家に帰ったら読めなくなるのは、
ジムなら筋トレができるのに家じゃできないのと同じだな、と思った。