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親のファシズム・子のアナキズム<その6>対立・対話、そして断絶

◼️対話の周辺から試考してみる

親と子の会話に意図があるとして、「マニピュレーション(自分側の意図でコントロールしようとする会話」、「コミュニケーション(相互に意図を汲み取っていく会話)」、「ノン・コミュニケーション(相手の意図のコントロールを端から発生させないようにする会話)」の3種類に区分して、3X3を組み合わせてみたのが、前回までのお話でした。


図表42 再掲

少し寝かせてみると、小生の気づきも増えるのですけど、結局、親子に限らず、コミュニケーションには相互の相手に対する意図(期待や疑念や忖度)が存在します。その意図同士が、対立関係で車輪がスタックするとマニピュレーションに分類。違和感なく、うまく走っていれる感じがすればコミュニケーションに分類、ってことなので、マニピュレーションは「後からの評価」と言えます。「トーチャンいいこと言ってるじゃん」は親のマニピュレーションかも知れないのです。ですけど、子供は対立を見せないのでアナキズムも起動しないし、穏便で親にとって良い反応かもしれません。
 しかしです。そもそもマニピュレーションはファシズム的な権力や権威を全面に出さない感情操作が含まれているので、穏やかさが不穏ですな。実は無意識下では、親から子への古い信念の転写が起きてたりしてね。古い信念転写とは、子供が大人になって繰り返してしまう親の負の影響のことです。

つまり、この潤滑に進んでいるかのように感じる会話、3X3の中心の対話は「家庭生活のリソース視点(時間や感情的エネルギーの浪費の有無)では望ましい」けど、「個人(子供の)の発達視点では、古い信念(親の)転写が起きている」可能性も含んでいます。とは言うものの。 毎回、対立してたら体がもちません。ここでは、中央にある対話「コミュニケーションXコミュニケーション」が無条件に良いものとは言えないんだな、程度に収めておきます。
 娘の不登校の話も左上の対立(マニピュレーションW)から、徐々に中央の対話(コミュニケーションW)に向かっていくわけだけど、右下のノン・コミュニケーションWによって、冷静さ(親の諦めも含め)を取り戻して、また対立や対話に向かってましたね。ボックスごとの良し悪しの判断に関しては保留し、まずは全て何らかの意味があるのだろうという構えが大切なのです。


図表43

さて、ここで一旦、3X3に拡幅が終わった図を解説してみます。対象になる場所にコード入れました。

・N-1:<親のマニピュレーションX子のノン・コミュニケーション>
ここは典型的な、子供からの親の意図ある会話を無視していく部分なので、間接的な反ファシズム。
「子供は親にファシズムを感じている→拒絶によって、そのヤバさを回避する」 学校を休みがちな子供と話をしようとしても、部屋にすぐ戻ってしまう、みたいな・・・引きこもり予備群?

・N-2:<親のノン・コミュニケーションX子のマニピュレーション>
ここはN-1の反対で、子供の意図を親が無視していく部分。間接的な反アナキズム。
「親は子にアナキズムを感じている→拒絶によって、そのヤバさを回避する」 学校を休みがちな子供を放置していく。実質不登校なので、親としては信念に反するのだが、親が仕事を優先せざるを得ない家庭環境もあるので、これはこれで問題の先延ばしでしのぐ感じか?

・N-3:<親のコミュニケーションX子のノン・コミュニケーション>
親を警戒する状態なので、先手を打つように会話が子供から回避されているパターン。間接的なアナキズム
「子は親にファシズムを感じている→拒絶によって、そのヤバさを回避する」 「また、学校に行け」的な話にすぐ結びつくので、会話そのものを最小にしておこう、という弱いアナキズムな意図がある

・N-4:<親のノン・コミュニケーションX子のコミュニケーション>
 
親はあえて、コミュニケーションを取らないことで、沈黙によって意図を伝達させようとしている。無言による権威の活用「言いたいことは、分かっとるだろう」的な間接的なファシズム

・断絶:またの名を沈黙
名称はイマイチだけど、親子がそれぞれ依存から自立に向かう流れでは不可欠ではある。小さい断絶と小さい対立の間が揺れ動くのが理想で、大きい対立が大きい断絶に一気に動くのが家庭への影響がデカそう。
 「不登校は、年齢が上がってからの方が重症度が高い傾向がある」と言われてますが、それは、断絶の手前までお互いが我慢して表面的な対話(マニピュレーションへの双方の自覚がないまま)で生活してしまうからとも読めます。

もう一回全体のマトリックスに戻ります。

 一連の3X3分解の話が示唆するものは、すべての会話が動体平衡であり、対立→対話→断絶→対立→対話みたいな流動的であることが健全な会話関係じゃないのか?ってことではないでしょうか。先の述べた、すべてのボックスに良し悪しを判断する必要はなく、保留は流れを読もうとする態度てことです。もちろん、長居することが望ましい状態か、そうじゃないかはあるでしょう。
 特に右下の断絶は保留(二人の関係の凪)なのか、対立の拗(こじ)らせたものかはポイントですな。動体平衡が保てているのか、静体平衡(硬直?)で、安定という名の下にマグマだまりができているのかの違いです。

で、話を展開していくと、親のファシズム、子のアナキズムってこの会話パターン(対立ー対話ー断絶)の基軸(左上~右下の斜め線)から脱線したもなんだな、ってことです。

 親子は、家庭を場にした自立ー依存の行為の現場です。つまり、宿命的な関係をベースにしている分、人間関係がはみ出していく(図で言うと右上側と左下側)わけです。


今回は、対話について探ってみました。

図表44

巷の対話スタイルの主だったものを3X3のマトリックスに入れてみたのが図表44。

 二つの楕円にグルーピングしてみました。

 当事者のコミュニケーション・スキル群(NVCとかアドラー心理学など)は対立と対話の間の軸を扱っていて、当事者の視座。第三者型のコミュニケーション・スキル群(アクティブ・リスニングや対話ファシリテーションなど)は対立ー対話ー断絶までの軸を扱う視座ぐらいに、大雑把ですが、区分けできそうです。

 視座別の対話スキルがあるってことですね。

見立てを変えてみましょう。

 実は、対話って2タイプあって、(1)対立の解消=コンテンツに関する対話、(2)断絶の解消=コンテクストの創造、とも言えそうです。

図表45

<小ネタ:はじめ>
前回の「ダイアローグ」(デヴィッド・ボーム)からの話。アインシュタインとニールス・ボーア(ボームとは別人)の物理学での思想的な対立がありました。相対性理論と量子力学が同じ基軸で解釈できないためです。端折っちゃうと、物理学の大御所二人は対話できず、断絶しちゃうんですな。物理学では大スターじゃないですか、アインシュタインって。でも、その柔軟な視点と、深い洞察力が尊敬されているアインシュタインですら、量子力学を受け入れられない、いや、受け入れられなくてもいいんだけど、そこからの新たな創造に進もうとはしなかった(したかもしれないけど、したようにはみえなかった、が正確か?)

 2大コンテンツの量子力学と相対性理論の断絶は、次の文脈(コンテクスト)を求めているのだけど、そんな凄い人たちも精神的な動揺に打ち勝てなかったことが著者のボームの悲しみであり、著作を世に出す意図だったのでした。

 この逸話は、アインシュタインでそうなら、小生如き小者は文脈を越えた対話なんか無理だろうな、って思うのです。

 むしろ、ここで思ったのは「断絶って必要じゃん」、ってことです。断絶には、周囲への波紋が広げるインパクトがあるってことです。もちろん、断絶が暴力的な展開(政治的なファシズムや過激なアナキズム)に向かえば、世の中が台無しなので、そのインパクトの取り扱いは丁寧にするのが望ましいでしょう。でも、文脈の変更が要請されていることに当事者を含め、周囲の第三者も気がつくって意味が断絶にはあると思います。「ダイアローグ」という本が世に出たのが、大御所二人の「断絶」のおかげなのように。

 断絶が生む沈黙というか、気まずい波動というのがあって、少し冷静に眺めることができたら、そこに古い信念の姿が見えてくると思うのです。そう、信念って光学迷彩着てるからね。普段は気にかけることもできないのです。

<小ネタ:おわり>

Go with the flow.


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