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地域おこし協力隊活動レポート(2022年4月~2023年7月)

(下記は、2023年7月に山形県長井市に提出したレポートを原文そのままに掲載したものである。)

1.地域おこし協力隊着任の背景

1-1 地元の担い手の背景にある祭り・観光・教育
 
筆者が長井を訪れたのは2016年に遡る。きっかけは、2011年から同市西根地区で開催されていた「ぼくらの文楽」の調査研究のためであった。当時、ぼくらの文楽は、若い世代を中心に広まり始めていた「フェス」のローカル版として注目を集めていた。
 筆者の研究テーマは地元の担い手の継承・創出である。それは、現在に至るまで社会的な問題であり続けているが、筆者の個人的な問題でもあった。筆者は、幼少期の原体験が多摩ニュータウンにあり、高校までを過ごした熊本には地元意識を持つことがなかった。その後、大学の卒業論文で広島カープをテーマに選んだのも、地元への帰属意識が強い広島の人々への憧れと関心から来るものであった。
 フェスが広まった2000年代は、社会全体で都市化・郊外化が急速に進む一方、地域社会では、祭りの担い手が減少し、観光資源化することによってその存続を図るケースも増えていた(①祭りの問題)。また、その裏側では若い世代が「疑似故郷」として、毎年フェスに参加し続ける事例が見られていた。地域社会とフェス、この両者の接点を考えるのが筆者の研究テーマである。そこで注目したのがローカルフェスだった。2000年代のフェスは、主に全国各地のイベンター(興行主)がその担い手であった。それらのフェスの参加者が2010年代以降、自ら主催者となり、ローカルフェスを立ち上げるケースが全国で同時多発的に増えていく。ローカルフェスは、主に30代の会社員や個人事業主等が、自らが住む地域で大義名分を意識しない「自らが楽しい」イベントを行うことが特徴である。また主催者たちは、その延長線上で、公共的なまちづくりにもその活動を広げ始めていた。筆者の研究の目的は、彼らを地域社会の新たな担い手として位置づけることにあった。
 そもそも、地元の担い手が減少する背景には、労働と余暇から構成される社会の仕組みがある。イベント参加者は、開催地域に参加(移住)するわけではない。現実の日常では、仕事と自宅を往復する日々であり、自らの住む地域や地元を顧みる時間はほとんどない。日常の息抜きに、労働の対価として行う消費活動の象徴が観光であり、地方での暮らしを疑似体験しながら、都市での暮らしを続けていく(②観光の問題)。
 では、この労働と余暇の社会に、人はいつから参加するのか。それは、時間割の基に日々の生活が編成される義務教育であると考えられる(③教育の問題)。受験や進学を前提とした生活とは、自らの住む場所と直に関わる時間の喪失につながる。さらに、大学に入れば、今度は「就活」を前提とした生活が始まり、労働と余暇の社会に組み込まれるのが一般的である[1]。
 上記の「祭り・観光・教育」の問題は、今回の地域おこし協力隊のミッションである「関係人口の創出」とも深く関わっている。都市部の大学生が、地方の魅力に気付き、伝統的な祭りに参加する。一方で、地方に住む高校生は、大学や都市を目指す。その両者が交わるところに関係人口の問題がある。なぜなら、都市部へと流出した若者を還流するために、定住でも交流でもなく、より柔軟なかたちで地域と関わる第三の道として注目されているのが関係人口だからである。
 一方で、地域と緩やかに関わる関係人口が増えるのはよいが、では、誰が地域の過去と現在、そして未来を主体的に引き受けるのか。地域の核となる人材の育成問題が浮上してくる。

1-2 関係案内人としての研究者
 
その課題に対応するのが、関係案内所の創出であると考えられる。関係人口の提唱者の一人である指出一正氏は、著書の中で、関係案内所について下記のように語っている。

 「関係」を案内するということは、「消費」の上にあるきっかけづくりです。誰もが、自分のオリジナルの世界を生きています。だから、そのオリジナルの文脈に近い、新たなストーリーや出会いをうながすことで、旅や、余暇の価値は高まります。案内をする側は、そこも含めて、対象となる人の嗜好や性格を理解しようとする努力をしなければなりません[2]。

 筆者は、自身が関係を案内する当事者になる可能性について、これまで考えてきた。それは関係案内所の担い手としての研究者の可能性である。もう一人の関係人口の提唱者である田中輝美氏は、地元の新聞社に就職後、現在はローカルジャーナリストとして独立し、大学での研究も行っている[3]。田中氏の活動の軌跡は地域のことを深く理解し、地域内外の人を繋げる存在としての研究者の可能性を示している。
 筆者は大学卒業後、広島の地方紙の記者を志したが叶わず、北海道大学大学院で観光学修士を取得し、東京でコンサルタント・シンクタンクの研究員として働き始めた。同職は自治体からの業務委託でまちづくりに関わるが、地域とはあくまで労働としての関わりに過ぎず、契約が終了すればその関係も同時に終了する。その過程で発生する経済は、契約を結んだ自治体の税金から拠出されるが、研究員は自治体の住民ではない。また、日常では、自分が住む地域との関わりはほとんどなく、寝に帰るだけである。
 また、「研究」と名が付く職業には大学での研究がある。大学は、社会の仕組みを分析し・変革する上で基礎的な研究をする場所である[4]。しかし、近年は「稼げる」研究が過剰に求められ、その実態は会社員と近くなり、自らの住む地域と関わる余裕はほとんどない[5]。
 コンサルタント・シンクタンクの研究員、大学の研究員とも異なる第三の道。その第三の道としての関係案内所について考えてみたい。この考えは、2016年からのぼくらの文楽や長井との出会い、その後の西根地区の草岡新町夏祭りへの参加があったからこそ、生まれたものであった[6]。この第三の道の可能性の検証こそが、地域おこし協力隊着任の最大の目的であった。

2.地域おこし協力隊としてのこれまでの活動

2-1 関係学舎というコンセプト
 
筆者が提示された協力隊のミッションは「関係案内所の創出及び空き家の利活用」であった。関係案内所の創出は、以前から長井市及びやまがたアルカディア観光局が進めていた同構想の具現化である。その具現化の場所として想定されたSENNは、長井高校の下宿屋がカフェとゲストハウスにリノベーションされた施設で、コロナ禍に入り休業していた。筆者は前述の通り、関係人口として長井と関わり、SENNの構想が立ち上がった際の現場にも居合わせており、その当事者の一人であると言える。長井やSENNには愛着があり、この機会に主体的に関わってみたいと考え、2022年4月、地域おこし協力隊に着任した。
 筆者が応募した協力隊の枠は自由提案型でもあり、「研究者と音楽家が集うレコーディングスタジオ」というコンセプトを応募時の書類に記載した。これは、SENNを敷居が高いアカデミックな場所にする意図はない。その土地に暮らす人や旅人が、自由に車座になって、地域の過去・現在・将来をざっくばらんに話す場が、地域のなかに恒常的にあること。それが教育・研究の原点であり、まちが生まれる原点にあると筆者が考えているからだ。それは、大学の授業や学会よりも音楽ライブの方がふさわしいと考え、同コンセプトにした。筆者は、このことを長井の菅野芳秀氏やフォークグループ「影法師」の取組に学んだ[7]。関係案内人としての在野研究者の先達は既に長井にいたのである。
 在野の学舎としてのSENNに、全国の研究者や学生、地元の高校生や大人が集えば、大学進学を契機とした地元流出の流れを変えられるかもしれない。また、そこに自主独立的な研究者や学生が集うことによって、既存の大学や教育の在り方も変わるかもしれない。このような意図を踏まえ、この取組を暫定的に「関係学舎」と呼ぶことにした。
 初年度はまず北海道の学生を中心としたモニターツアーを実施し、関係学舎の実現可能性を検討する期間とした。2~3年目以降は具体的な実現可能性を検討するため、イベント開催やゲストハウスの試験的な運営を想定していた。

2-2 北海道学生のモニターツアー(地域外の視点)
 
2022年の3月から2023年の4月にかけて、北海道を中心に計10名の学生がSENNに滞在した。当初は筆者が非常勤講師を務める北海学園大学の学生を中心に自ら周知を行ったが、次第に筆者を介さず、長井に来た学生が新たな学生を連れてくる流れが生じた。このモニターツアーは量よりも質を重視し、基本的に筆者も学生と多くの行動を共にし、観光とは異なる体験を試行的に実施した。具体的には地域にあるカフェのイベント出店手伝いや、他の地域おこし協力隊の活動への参加等、一定のプログラムを設けつつも、長井で自由に活動してもらい「疑似生活」する時間を多く設けた。
 参加した学生には「関係ノート」と題したレポートを書いてもらった。これは旅の日誌を兼ねた「関係人口について考える」自主的なレポートである。長井に滞在した学生が、「なぜ長井を訪れようと思ったのか」を言語化すること。それが、次の学生が長井を訪れる足掛かりとなる。その積み重ねが、結果的に新たな長井の価値の創出や関係案内所の担い手の創出になることを想定した。
 このプロセスの中から、長井に継続的に関わりたいと考える学生のあいだで「SENNの扉」と題したグループが生まれた。彼らには、北海道から長井に学生が訪れるためのアイデアついて、一般的な観光PRとは異なるあり方を検討してもらった。それは、前述の関係案内所の担い手に必要な資質について、学生たちに自主的に考え・実践してもらう意図があった。リーダーとなった森和磨さんは、2023年5月から地域おこし協力隊に着任し、SENNの主たる運営を担い始めている。

2-3 関係案内所の創設へ向けて(地域内の視点)
 
モニターツアーのプログラム作成、及び関係案内所の創設に向けて、地域内の人々との関係を深め、ネットワークの創出に務めた。所属先の日本・アルカディア・ネットワーク株式会社(JAN)の高橋直記さんサポートのもと、やまがたアルカディア観光局、山形工科短期大学校や長井高校の先生方、地元企業の若手経営者の方等との意見交換等を行った。またゲストハウスの運営を見越し、地元企業のサンホームさんからの家具家電リースや池田屋本店の池田将友さんとの連携による「あしあと文庫」の創設等の準備を行った。

2-4 ぼくらの文楽アーカイヴプロジェクト
 
上記に加え、昨年度の主たる活動の一つが「ぼくらの文楽アーカイヴプロジェクト」である。一昨年、ぼくらの文楽は主催者が予定していた10年の開催期間を終了し、継続の可否の岐路にあった。筆者は昨年の実行委員会の話し合いに参加し、形式的に継続するのではなく、これまでのイベントの成果と今後継続開催する意義を立ち止まって考えるべきではないかと提案した。その話し合いの過程で、地域外の人々が始めた「ぼくらの」イベントが、継続開催することで地域内外の人をつなぎ(関係案内所的な機能を果たし)、「みんなの」イベントとなったことが確認され、「みんなの文楽」として再出発することになった。
 筆者は上記の提案を踏まえ、ぼくらの文楽の功績を振り返るアーカイヴプロジェクトをみんなの文楽の一コンテンツとして実施した。プロジェクトには北海道・東京の学生や札幌で音楽フェスを手掛けるチームや筆者の故郷である多摩ニュータウン在住の映画監督も参加した。
 アーカイヴプロジェクトは、イベントの意義を振り返ることだけが目的ではない。主催者が変わりイベント開催の意義が一旦白紙となったので、改めてなぜ開催するかを考える必要がある。もちろん、これまでのイベントの盛り上がり・楽しさを継続することが、結果的に開催する意味になる。しかし、それを継続するためには、その楽しさを地域内外の人に発信・共有する必要がある。そのことを踏まえ、アーカイヴプロジェクトでは、この取組を通じて、みんなの文楽の開催意義を創出する意図があった。
 プロジェクトでは、ぼくらの文楽やみんなの文楽関係者へのインタビュー、みんなの文楽参加者へのリアルタイムインタビュー、札幌の喫茶なみなみと伊佐沢の安部ぶどう園協力によるぶどうのパウンドケーキの創作・提供、みんなの文楽記録映像の制作等を行った。リアルタイムインタビューでは、参加者の「ルーツ(根)」を掘り起こす作業を行い、計8名が参加した。インタビューではインタビュアー自身のルーツを開示することが、相手のルーツを引き出すこと、その対話の場が新たなルーツの源泉となることが分かった。インタビューの中で見出された参加者のルーツ(根)は、家族など人にまつわる記憶だけでなく、「西山の夕暮れ」、「水」など、身体と密接に関わる環境や物質もルーツとして認識されているのが印象的であった。

3.活動終了に至った背景

3-1 アーカイヴプロジェクトを通して見えてきた地元
 
前述のリアルタイムインタビューでは、筆者自身のルーツについても振り返る機会となった。筆者は、これまで全国のローカルフェス開催地域に滞在しながら、研究を続けてきたが、常に戻る場所は札幌・北海道大学であった。札幌には元々縁もゆかりもないが、いつのまにか地元について考え・対話する場所としての地元が創出されていたのである。それは、2016年からの長井との関係や今回のアーカイヴプロジェクトメンバー、みんなの文楽実行委員、そしてイベント参加者との対話によって創作されたものである。
 この過程で、筆者は、札幌と長井の往復を繰り返すことで、体調を崩していた。そこで、このプロジェクトの成果を実際の活動に結びつけるためにも、今後は札幌を拠点に生活をした方がよいという結論に達した。

3-2 移動しないことについて考える
 
前述のリアルタイムインタビューの中で、都市部での荒んだ食生活で体調を壊し、地元に戻ったとの話を聞いたが、体調の変化に対する意識は、地元を創出する上で、非常に重要な要素である[8]。地域おこし協力隊は将来的な移住・定住を前提とした制度である。ただ、今回のミッションの核には「関係人口」があり、長井と札幌を往復する活動は、そのミッションの枠内に含めることができるだろう。
 しかし、筆者自身は、関係人口とは異なる地域での暮らしのあり方を模索したいとの思いがある。関係人口は基本的に人の移動を促進する施策であるが、筆者は移動を抑える創造性について考えてみたい。人・モノ・カネの流通速度を高めていく中で、当事者の人は様々な知識や技術を各地域に運ぶ一方で、身体はその移動の負荷に耐えるために平準化・均質化していく可能性がある。一方で、長井のレインボープランの中に存在している人は、物理的に遠方に移動しないからこそ、日々刻々と変わる気候に対応し、多種多様な有機物と出会い・共棲し、その生活の中から方言や文化が生まれる。また、その中でこそ、健全な経済圏域が生まれるのではないか。これこそが、筆者が札幌と長井との往復生活における身体の気づきであった。これは世界的な課題になっている気候変動の問題にも通じる。また、国内の研究の領域でも、奈良県立大学の地域創造研究センターでは「撤退学研究」が始まっており、下記のような研究テーマが示されている。

 現代日本の危機的状況を「慣性の力学からの撤退」という観点から考究する。一度走り出したものは、止められない止まらない。今必要なのは、惰性に流されず、慣性に埋没しない力ではないか?ホモ・サピエンスよ、イルカから“浮力”を学べ。状況に埋没しない“浮力”こそ、知性の核心なのだ[9]。

 上記の筆者の考えは、移動することや関係人口の否定を意味していない。上記のような考えと出会うためには偶然の出会いが生まれる“旅”が必要である。そのための適度な移動とはいったい何なのか。その実践的な研究を札幌で行いながら、筆者が暮らす土地の大学生等が長井を訪れるきっかけ作りをこれからも行っていきたい。

4.今後の展開―homeportとして
 
本レポートは、活動期間中の具体的な内容よりも、協力隊着任に至った背景に多くの分量を割いている印象を抱くかもしれない。しかし、それは繰り返し述べてきたように、なぜその地域を訪れ・暮らしたいと考えるに至ったのかを考えること、そのことこそが重要な活動であり、関係案内所を創設する上で重要だと考えたからである。今後は、本レポートを一般的な読み物としてまとめたものを、長井や札幌で出会った方との対話を通じて作成する予定である。完成は2024年3月を予定しており、完成後は、SENNの本棚への寄贈を考えている。
 ただ、レポートは本棚に置かれたままでは、埃被ってしまう可能性が高い。そこで、次年度以降は、自主的な取組として、レポートを手に取った人が、そのレポートを「切符(台本)」代わりに、札幌と長井を行き来できるしかけを創作してみたい。ただし、それはシステム的なものではく、演劇的なものをイメージしている。それは、例えば下記のようなイメージである。

 ある日SENNを訪れた高校生が、本棚に置かれていた一冊のレポートを手に取る。するとそのレポートは札幌への切符(台本)代わりになっており、そのレポートを便りに札幌を訪れる。切符に記された地図を頼りに「homeport」と名づけられた場所に行ってみると、自分の好きな研究やサークル活動をしている大学生が自然に集まっており、彼らの家にホームステイをする。そして、今度は札幌の大学生が長井を訪れる[10]。

 協力隊での活動当初から、長井のSENNでの取組に対して、札幌の拠点を「homeport」と名づけていた。これは「母港」と「母校」の2つの意味を兼ね備えている[11]。筆者自身が「homeport」の場所となり、長井とも継続的に関わっていきたいと考えている。

長井市地域おこし協力隊 山崎翔


[1] 鷲田清一(1996=2011)『だれのための仕事―労働vs余暇を超えて』講談社

[2] 指出一正(2016)『ぼくらは地方で幸せを見つける―ソトコト流ローカル再生論』ポプラ社、同書p225より引用。

[3] 田中輝美(2021)『関係人口の社会学―人口減少時代の地域再生』大阪大学出版会

[4] 地方自治体のまちづくりでは、コンサルタント・シンクタンクが事務局を担い、有識者として大学の研究者が招聘されるパターンが慣行化している。地域の担い手を本気で育てるには、この構造自体を見直すことも必要ではないだろうか。

[5] 近年は在野(独立)独立研究者という道が注目されている(荒木優太編著(2019)『在野研究ビギナーズ―勝手にはじめる研究生活』明石書店)。

[6] 詳細は山崎翔(2021)『音楽フェスティバルを通じた地域社会の継承―山形県長井市西根地区「ぼくらの文楽」を中心に』に記載している(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/83426)。

[7] 菅野芳秀(2021)『七転八倒百姓記―地域を創るタスキ渡し』現代書館、影法師(2017)『現場歌手 影法師』ひなた村

[8] イザベラ・バードの『日本奥地紀行』は、各地の文化や歴史の紀行文であると同時に、自身の身体にとって快適な人間や気候との出会い、つまりは「体調」の紀行文としても解釈することができる(イザベラ・バード著、高梨健吉(1880=2000)『日本奥地紀行』平凡社)。当時の主な移動手段は徒歩であり、身体と環境が常に絡みつきながら旅をしていたはずである。現代においても北海道の釧路は、その気候的特徴である「避暑」を売りにした関係人口施策を行っている。筆者が参加した学会では、夏の間の釧路滞在者は、避暑が目的であり、地域住民との関わりが課題である旨が報告されていた。

[9] 奈良県立大学地域創造研究センター徹底学研究ユニット(https://narapu-rcrc.jp/units/withdrawal/)。メンバーの一人である青木真兵氏は、同県東吉野村に人文系私設図書館「ルチャ・リブロ」を開設し、都市と地方を行き来しながら「土着の知」について実践的な活動を行っている。彼の移住のきっかけは「体調不良」である(青木真兵(2021)『手づくりのアジール―「土着の知」が生まれるところ』晶文社)。

[10] コンセプトとしての演劇は、北海学園大学の学生演劇を基に着想している(同校は昔から演劇が盛んで、大泉洋などの俳優を輩出している)。また、北海道の富良野を舞台にしたドラマ「北の国から」は、多くの観光客が登場人物を疑似的に演じることが観光資源となり、多くの移住者を生み出している。本ドラマを一つのきっかけとして、2000年には日本のNPO認定法人第1号の「ふらの演劇工房」が設立され、富良野は演劇をテーマにしたまちづくりが展開されている(北海道ふるさと新書編集委員会(2003)『富良野市―もうひとつの「北の国から」』北海道新聞社)。長井で活動する際の話のネタとして「北の国から」は頻繁に話題に上った。

[11] この名称は、北海道大学の歴史を「アーカイヴ」している北海道大学大学文書館の展示資料「新渡戸稲造の“homeport”札幌時代」(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/56499)に由来している。新渡戸は、岩手県盛岡市出身であり、札幌農学校卒業後、国内外で活動を展開した。札幌では、学校に就学できない児童のために「遠友夜学校」を開設し、北大の学生が無償で授業を行った。


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