はじめにーもっと自由になるためのレッスン(i~ⅵ)
そもそも観光とは、日常を離れ、ひとときの非日常を楽しんだ後、もとの場所へ再び帰る活動
同じ時間に同じ空間を観光する人びとは、同じ体験をするのか。おそらく「違う」。
⇒時間の感じ方も違うし、同じ空間にいても、(スマホなどを通じて)違う空間に接続し、違う時間を生きているかもしれない*)
たとえ同じ絵や音楽や映画や本であっても、人によっては「名作」にも、「駄作」にも、また「無意味な作品」にもなるように、まるで同じような観光を体験したとしても、そこにはさまざまな「違い」が生じる。
おそらく観光は、誰でも自然にできる生得的な活動ではなく、人間が行う他の活動と同じように、生まれた後の長い年月のうちに学び習う、文化的な活動。そしてその体験は、人によってさまざまな「違い」を生み出す。
そのため、観光には一定のトレーニングが必要であり、また可能であると考えることができる、すると、この文化的活動とは、そしてそのトレーニングとは一体何か。
文化的活動と人間の自由
音楽や絵画などの文化的活動だけではなく、人間が行なう活動のほとんどすべてが、学び習うことで身につく経験的で多様な技能たち(アートの複数形であるアーツ)によって可能になる
人間は文化的活動の結晶体であり、その技能(アーツ)を適切なトレーニングによって高め続けていくことで、より多くのことをよりよくできるようになり、そうしてより自由になっていく存在である
観光もこうした文化的活動の一つ
観光系の大学は全国に数多くあるが、「観光業で働くための技能」と同じかそれ以上に、ここで問う「観光するための技能」を本格的に学ぶことができる授業は、どれほど実現されているのか。本書では、観光にリテラシーという考え方を導入することで、文化的活動としての観光の可能性を探求することを試みる。
自由のトレーニングとしての観光
自らトレーニングを重ね、できなかったことができるようになること、さらには「できないこと」を自ら発見して、それを「できること」にするために探求し続けることができれば、わたしたちはもっとワクワクする体験を重ねていき、もっと広い視野を手に入れて未知の世界と出会い、そうしてもっと自由になっていくことができるはず。
他の文化的活動と同様に観光も、あるいは観光こそ、その独特な「観る」技能のトレーニングによって、さらに自由になっていく体験を生み出していくことができる、と本書は考える。
⇒観光は行って戻って来る(労働と余暇)行為であり、近代の象徴。そこから自由になるためには、その形式を否定するのではなく、逆に、その形式の中から創造を生み出していくべきではないか。「~からの自由(freedom)」と「~への自由(liberty)」(E・フロム)。これまでの観光は前者、すなわちリゾート(休息、静養、避難)に象徴される「~からの自由」に注目してきた。そこでこれからの観光には、後者の「~への自由(Liberty)」を探求していくことを期待したい、と本書は考える。
そうして、「できないこと」と「できること」に変え、さらには「できること」そのものを新たに創り出す、文化的活動としての観光を新たな観点から理解し、そこに秘められた可能性を探求していくことで、わたしたちはいまよりもっと自由になることができる。
鈴木謙介(2013)『ウェブ社会のゆくえー〈多孔化〉した現実のなかで』
NHK出版