[回転寿司屋 スシロー]あきんどスシローの歴史
今回は、スシロー店舗の経営で有名な、あきんどスシローの歴史について解説します。
1984年6月、創業者 清水義雄さんが大阪府豊中市に、すし太郎1号店を出店しました。
当時の大阪府豊中市は、公害の問題が頻発したり 工場が地下水を過剰に採取するため地盤沈下が進んでいたので、土地が安く 店舗借り賃も高くなかったようです。そのため清水さんは、家賃の支払いにはあまり苦労しなかったそうですが、店で値段が安いが、良いネタを使った美味しい寿司を作って売り、『回転寿司は安かろう悪かろう』という固定概念を壊すために、問屋を通さず、水産会社から直接 魚介を仕入れて 食材調達にかかるコストを下げようと思いました。お金が無いので、水産会社にあまりお金を払えない清水さんは魚介を安く売ってもらうために、水産会社が求めている「今 日本の魚料理屋たちは、どんな魚を買いたいと思っているのか」や、「これから水産物の生産量は減少してくると言われているけれど、具体的に漁業の世界でどのような問題が起きているのか」などの情報を水産会社に伝えようとしました。清水さんはそのため、業界紙を読みあさったり、漁業に関する政策を調べたりして情報収集することに苦労しました。しかし「飲食店が食材を、問屋を介さずに直接仕入れる」という当時の常識から外れているようなことを、毎朝早起きして新聞社に通いつめたり、粘り強く交渉する事により成し遂げることが出来たので、そこから清水さんは、焦らず 地道に続けていけば、成功するということを知ることが出来ました。こちらの気づきは、商売を続けていく上で役に立ったそうです。
1984年10月 大阪府豊中市に、清水義雄さんは株式会社すし太郎を設立しました。
地道に 安くて旨い寿司を作り続け、貯金が貯まる度 道路沿いの店舗やテイクアウト専門店など、店舗を増やし続けた清水社長は、ついに寿司屋を株式会社化することが出来ました。こちらにより、社会的信用力が付いて、食材をさらに安く売ってもらう事が出来るようになりました。
「回転寿司屋は、回転させる装置を購入するためにお金がかかるので、もともと巨大資本をもっている大会社しか作れない。作っても、『自分の店の味を回転寿司形式で提供すると、どのような層に人気が出るのか・その層に喜ばれるためには、どのように商品を改良すれば良いのか』などを理解するためには、何度もトライアンドエラーを繰り返さなくてはいけないので、利益が出るようになるまで かなりの時間がかかる。余分な資金を持たない小規模会社が回転寿司ビジネスに手を出すと、利益が出るようになる前につぶれてしまうだろう」
と思われていました。しかし、今回個人の事業主が回転寿司屋を始めて株式会社化できるまで成長してしまったので、世間は驚きました。すし太郎はさらに期待されるようになり、世間からすし太郎は、今 苦手な人事の知識を付けて、従業員をもっと沢山雇い 会社の規模を大きくすることを期待されるようになりました。
1988年9月、清水義雄さんの快挙を見た清水豊さんが、マネをして株式会社すし太郎を設立しました。
創業者 清水義雄さんの弟の豊さんが、大阪府吹田市に寿司屋を開店しました。なぜ名を、同じ株式会社すし太郎にしたのかというと、当時 すし太郎は有名店となっていたので、そちらの名前を使うと集客がしやすいと思ったからでした。その時 兄の清水義雄さんは『人に仕事を頼む』事が苦手だったので、従業員数を増やすことに乗り気ではなく、自分の店舗を豊中市の外につくる考えはなかったので、弟に同じ店名の寿司屋をつくりたい と頼まれると、「豊中市の外でやるなら、自分の店のお客さんを豊のすし太郎に取られる心配がないからいいよ」と了承しました。
1985年、日本政府がアメリカとプラザ合意を締約し、世界中で円が買われたことで 急速な円高が進行し、日本銀行が円高不況対策の一環で低金利政策を行ったため、日本全国で物価が急上昇する、バブル景気が始まりました。そのため、豊さんはこちらの店を経営する上で仕入れ価格の大幅な上昇に苦労しました。考えた末、豊さんは一部の商品を大幅に値下げする事により、客を惹きつけ、他の商品を大幅に値上げすることにより利益を確保する事にしました。このようにして、豊さんのすし太郎は無事利益を上げられるようになりました。
1996年9月、清水義雄さんは一皿100円均一価格の店舗を出店しました。
1999年8月、兄の義雄さんが経営する株式会社すし太郎と、弟の豊さんが経営する株式会社すし太郎が合併しました。
合併した理由は、意志決定する人を一人に統一しなければ、ややこしさが生じてしまったからです。弟の豊さんは義雄さんのように、全皿均一価格で販売する気が無く、義雄さんのすし太郎店舗では全皿均一価格で売られているが、豊さんのすし太郎店舗では全皿均一価格で売られていないというややこしさが生じてしまいました。豊さんも、一部の店舗で実験的に全皿均一価格を採用していたそうですが、豊さんは、世界最先端技術の設備を備えた電磁波研究所(1997年完成)や、世界最長のつり橋 明石海峡大橋(1998年完成)の建設を成し遂げるほどお金持ちが多い兵庫県では、値段が高い皿の値段を下げ 全皿均一価格で出さなくても良いだろうと考えており、兵庫県では全皿均一価格で出していませんでした。兄の義雄さんは、なるべく全店舗で全皿均一価格を採用しようという考えだったので、兵庫県にも全皿均一価格店舗をつくっており、こちらから、兄が経営するすし太郎の店舗では全皿均一価格で売られているが、弟が経営するすし太郎では全皿均一価格で売られていないというややこしさが生じてしまいました。兄の会社の方がもっているお金の額が大きかったので、弟の豊さんの会社が兄の義雄さんの会社に吸収される形で合併しました。合併することにより、どのような価格設定をするか・どこからお金を借りるか などの意志決定がやりやすくなりました。
まもなく社名を「あきんどスシロー」に変え、人を見極める人事の能力を付けた清水義雄社長は、従業員を沢山雇い 店舗を増やし、2001年9月には関東、2002年7月には中部エリアに進出しました。そして2003年9月、あきんどスシロー社はついに東証第二部に上場することが出来ました。
有名な経営コンサルタント 渥美俊一(あつみ しゅんいち)さんも飲食チェーン店はセントラルキッチンを採用すべきと言い、有名な飲食会社が次々とこちらを採用する中、あきんどスシロー社の経営陣は2004年2月、本社内のセントラルキッチンを全面廃止しました。
セントラルキッチンは、各店舗で販売する料理を一つの大きな工場でまとめて調理する方法で、こちらを採用すればコックの人数が少なくても飲食会社を経営できるので人件費削減が出来たり、店舗によって味のばらつきが出ないので品質管理がしやすく、ファミレスチェーン すかいらーくやイタリアンの店を全国展開するサイゼリヤなど多くの企業が採用していましたが、スシローはセントラルキッチン方式を採用すると売上げが減ってしまったことから、セントラルキッチン方式にしない方が良いんだと気がついたためこちらを全面廃止しました。
2002年から、アメリカでITバブルが崩壊し、アメリカで新しく会社が作られなくなったので、建物の需要が減りました。こちらの流れの中で、アメリカでは、塩ビのパイプ・ドアの金具など、建物の材料を作る会社が減りました。ところが、イラク戦争が終わり世界が平和になったので、2003年からアメリカで投資バブルが起き、証券会社が沢山作られるようになり、建物の需要は回復しました。しかし、その時アメリカ国内には、建物の材料を作る会社があまりありませんでした。そのためアメリカは、そちらの材料を国外から輸入せねばなりませんでした。そして、アメリカを主な輸出入相手国に選んでいる、日本の商社・それらを生産するメーカーなどが儲かり、日本の景気が良くなりました。
そのため当時の日本では、値段が少々高くても良いから品質の良い物が求められていました。美味しい寿司を提供する あきんどスシロー社は喜ばれ、2011年から2013年の3年連続業界売上高No.1をとるほど売上げが増え 順調に会社にお金が貯まって行ったので、2012年2月から豪華な還元祭キャンペーンを3週間続けたり、2013年4月から、人気ネタを 利益率を度外視して沢山盛り付ける、180円寿司の販売を始める事が出来ました。あきんどスシローが、セントラルキッチン方式を廃止して売上げを伸ばしたのを見た同業他社 かっぱ寿司は、2014年からセントラルキッチン方式を縮小し、各店舗で寿司をにぎる工程を増やしたことにより、味が良いと評価されるようになり、同年12月に、焼肉店 牛角や寿司屋 にぎりの徳兵衛などの高級料理店を傘下に持ち、豊富な資金力のあるコロワイド社の子会社となり、同社から融資してもらう事により、経営危機を脱することが出来ました。
店舗を増やし、中国地方や四国にも進出したあきんどスシローでしたが、2007年、経営陣の中で「筆頭株主を誰にするか」の争いが起きました。経営陣の中にいた創業者兄弟の弟 清水豊さんが牛丼店 すき家を全国展開するゼンショー社に、3月、勝手にスシローの株の27.22 %を売る、その後 そちらに対抗するために、取締役営業部長 豊崎賢一さんが創業者 清水義雄さんと相談して、スシローの株を投資ファンドの会社 ユニゾン社に売りまくる、このような争いをしている内に、あきんどスシローは別の会社に吸収されてしまい、2009年4月から株式上場する権利を失いました。
2011年4月、あきんどスシロー社は、海外現地法人 スシローKOREA を設立しました。
スシローKOREAは、韓国ソウルに設立された海外初店舗です。あきんどスシローの経営陣が、なぜ海外に進出しようと思ったのかというと、2009年6月、回転寿司業界での月間売上が1位になり、2010年年末に始めたズワイガニやいくらなど高級食材を低価格で配達するというキャンペーンも大盛況となったので、「スシロー、次はどんなスゴい事をするんだ?」と世間から期待が集まったからです。韓国にも寿司文化はあるものの、まだまだ「寿司=高級食」のイメージが根強いので、韓国に寿司を安売りする店をつくると繁盛すると、スシロー経営陣は考えたようです。また、寿司を作るためには、青森県産の安全性の高い生サーモンや、かにみそなどを日本から輸出しなければならないので、輸送コストの安い韓国を海外初店舗に選んだそうです。
2008年、絶対につぶれないと思われていた米国大手銀行 リーマンブラザーズが破綻し、銀行や投資家の融資条件が厳しくなりました。韓国は以前から、貿易赤字を出していたので、アメリカの投資家から信用されておらず、さらに銀行や投資家の融資条件が厳しくなったので、韓国の通貨 ウォンが アメリカ投資家に投げ売りされ、ウォンの価値が下がりました。こちらにより、韓国国内の景気が急激に悪化し、人々の生活は厳しくなりました。その中、韓国の首都ソウルに安売り寿司屋 スシローKOREAの店舗が出来たので、韓国の人々は喜び、店は繁栄しました。
順調に利益が上がり、株価も上がってきたので、2012年9月に、かつて あきんどスシローの筆頭株主であったユニゾン社は、投資ファンド ペルミラに所持していた あきんどスシローの株を売って、約540億円の売却益を得ました。
2022年4月、あきんどスシローの代表取締役社長として、新居耕平さんが就任しました。
今回 社長に選ばれた新居耕平さんは、元々 多くの社員をまとめる品質管理室長・営業部長だったので、人の心を掴むのが上手いです。彼は2022年7月、生ビール半額キャンペーンを行い 不祥事により信用が落ち来客数が減ったスシローが赤字化するのを防いだ功績があります。さらに、2023年1月に起きた、「客が醤油ボトルの注ぎ口をペロペロなめる」事件の後、Twitter上にイメージが悪くなり客数が減ったスシローへの応援メッセージが多数ツイートされたので、2月に新居社長自身がお礼のツイートをすると、そちらのツイートに「スシローのイメージが良くなりました。また行きます」というコメントが6000件以上付けられました。今後も、人の心を掴む名人 新居さんの活躍から目が離せませんね。
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お疲れ様です。
貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。
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あなたはアマゾン派?楽天派?
<亀田の柿の種>
次回は、ラーメン屋「天下一品」の店舗を全国展開する、株式会社天一食品商事の歴史について解説します。
サムネイル内で使った画像の引用元:
https://www.akindo-sushiro.co.jp/
https://www.newsweekjapan.jp/stories/carrier/2021/01/post-95332.php
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000314.000049164.html