[ラーメン屋 天下一品]天一食品商事の歴史
今回は、ラーメン屋「天下一品」店舗の経営で有名な、株式会社天一食品商事の歴史について解説します。
1971年11月、創業者 木村勉さんが勤めていた画廊の会社が倒産し、勉さんは拾い集めた廃材から板金屋の友人に屋台を作ってもらい、銀閣寺周辺でラーメン屋の屋台を開きました。この頃、景気が悪くなっていたアメリカの人々の 経済成長を続けていた日本への憎しみから来る、大規模な日本製品ボイコットの影響で アメリカの日本からの輸入量が減り、工場があまり儲けられなくなり、戦後 大阪の工業地帯を中心に盛り上がってきた関西の経済が、衰退してしまいました。そのため、1970年代 特に関西では景気が悪く、天下一品ラーメン屋の開店初日の夜は、11杯しか売れなかったようです。勉さんは、豚骨や牛肉など、様々な食材を使ってスープを試作して味見を繰り返し、スープの味を研究していましたが、ある日、体調を崩してしまいました。長生きしなくては、ラーメン職人の道を究めることは出来ないと思った勉さんは、医者に「魚か鶏が体に良い」と言われ、体に良いスープを作れば、毎日味見する自分も お客さんも健康になれるはずと考え、以降 鶏ガラをベースとしたラーメンスープを試作するようになったそうです。鳥の骨からは、スープが少ししか取れないので、材料費がかさみましたが、例えば八百屋に頼んで、通常一束で売られているネギを特別に1本だけ売ってもらい、売るラーメンの上に載せるネギの量を減らす事によりコストを減らし、資金を続かせてスープの研究を重ねました。このような努力の末、勉さんはなんとか資金繰りをしながら、約4年の歳月をかけて「こってりラーメンスープ」を完成させました。木村勉さんは、後のインタビューで『目先のブームでコロコロ変えず、鶏ガラがベースと決めたら、成功するまで 何があっても鶏ガラをベースとしたスープを試作しまくらなければならない と分かった』と語りました。
1975年8月、木村勉さんは初の店舗を構えました。オープンしたての時、400人以上のお客さんが来てくれたようです。
1973年 日本では、副総理の三木武夫さんが、当時 アラブ産の石油価格を決める機関 OAPECに発言権のあったエジプトを訪問し、当時エジプトが実現させたがっていた、スエズ運河の拡張工事のための資金を援助したり技術面で協力すると申し出たため、アラブ産石油を安く売ってもらえるようになり、景気が良くなりました。しかし、日本はこれからどんどん景気が良くなって通貨がどんどん必要になると思った日本銀行が、日本円を必要以上に発行しまくったため、物価が急騰するという事件が起きました。そのため、値段は高かったようですが、天下一品のラーメンはこってりしながらも後味がスッキリとした、他にはない味なので 店は大繁盛したそうです。
5年以上、おいしいラーメンを提供し続け、1981年11月、ついに天下一品は株式会社化しました。株式会社天一食品商事の設立です。
1982年、京都市伏見区にスープ工場が出来、木村勉社長は ここで大量のスープが作れると思ったので、店舗拡大を開始しました。当時日本経済は、1973年秋に起きた、中東での戦争から発端した石油ショックから回復していました。1978年には、世界中の投資家から日本経済は期待を受け、日経平均の株価が石油ショック以前を上回るほど経済が回復してきたので、企業の求人も増え 優秀な人材が他の会社に取られてしまいました。そのため、店舗拡大するために必要な、優秀な人材が集まりにくい環境でしたが、木村社長は店舗拡大を断行しました。店が増えるに従い、天下一品ブランドも有名になってきたので、ブランド名を貸してラーメン屋を営んでもらい、そちらの店の利益の一部をロイヤリティとして払ってもらう、フランチャイズ展開も開始しました。フランチャイズの店長になりたいと希望してくる人も多数いましたが、その人に創業者 木村勉さん自らが、『この立地で店を出したいという理由は?開店日は毎日店に立てるか?』などと質問して、納得できる答えが返ってこないとフランチャイズ店長になることを許可しなかったそうです。また、新しいフランチャイズ店や支店がオープンすると、木村勉さん自らがその店に行き、接客サービスやスープの味をチェックし場合によってはキッチンに入り指導するなど、勉さんは天下一品ブランドを守ることに命をかけてました。
「おいしいラーメンを提供し続ける。これは、創業当時から周りの人に言っている約束だから、絶対に守らないとアカン」
社員にもそのように語っていた勉社長は、屋台のラーメン屋を始めたときから「店を持ちたい・ラーメンを売って、遊べるだけのお金を稼ぐ・全社員の給料を上げる」など、宣言したことを全て実現しておられます。その事実からも、勉さんが約束を何よりも大事に考えておられることが分かります。また勉さんは、店舗拡大を始めてから、自分が指導しきれなくなるから、フランチャイズ店を含めて300店舗までしか増やさない、と決めているそうです。
2005年 天一食品商事の幹部は、天然温泉を2本採掘し温泉を作り、大衆演劇場もあるスパリゾート施設「あがりゃんせ」を作りました。オープン当初、こちらは2000年代ブームとなった岩盤浴(温められた石の上に横になり、石から発する遠赤外線などの効果を得る方法)施設がついているので良いと評価されました。あがりゃんせを作るという案を出したとき、一部の幹部社員からは猛反対されましたが、勉社長は「お客さんに還元したい」と言って、こちらの案を押し通したそうです。天一食品商事は、滋賀県にお金を払って、滋賀県が県内の経済を活性化させる目的で作った、県内のホテルや飲食店の割引券 周遊クーポン限定券をあがりゃんせでも使えるようにしたり、天下一品店舗の前の行列に並んでいる人に「並んでまで食べてくれるお礼」と言ってあがりゃんせの割引券を配る事によりお客さんに還元しました。
2018年、木村一仁さんが社長に就任しました。一仁さんは、店長候補にする人材の発掘に力を入れている人で、コロナ禍で 閉店せざるを得なくなった、個人経営の飲食店オーナーに積極的に、天下一品のフランチャイズ店を経営しませんかと宣伝したり、現在 新たな従業員を募集して、海外にも店舗を作ろうとしています。
社長の座を引退し引き継ぐとき、創業者 木村勉さんは「ラーメンを作るために、鶏肉や野菜などの材料を仕入れる仕入先の業者さんは、潰れない限り変えてはいけない。人と人の繋がりほど大事なものはない」と言ったそうで、こちらは今でも 厳格に守られているそうです。現在 日本は、デジタル化や脱炭素の流れによって企業の設備投資が進んでいて、景気が良くなり 物価が上がっているので、食品会社は物流コストの増加・原料価格の高騰に苦労しており、買い手が無くなると死活問題になるので、天下一品のこちらの方針に、とても喜んでいるそうです。
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<なとり チータラ>
次回は、喫茶店「珈琲所コメダ珈琲店」の店舗を全国展開する、株式会社 コメダの歴史について解説します。
サムネイル内で使った画像の引用元:
https://for-money.com/tenkaippin/
https://www.tenkaippin.co.jp/commitment/
https://sasukebuta.co.jp/uredori/