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『土佐物語』「長宗我部弥三郎実名の事」ー中島可之助の見事な切り返し★長宗我部元親が「無鳥島の蝙蝠」なら、織田信長は「蓬莱宮の漢天」ー

1.『土佐物語』「長宗我部弥三郎実名の事」

長いタイトルだ・・・。
では、早速、「長宗我部弥三郎実名の事」の原文。

 其の頃、織田信長卿は、天下の器に当たって、回天の気を呑み給へば、元親も使者を進め、常に音信せられけり。
 或る時、元親、家老の面々を召し集め、「愚息・弥三郎、今年、既に11歳なれば、信長の烏帽子子に願ひ、実名の字を申し請けばやと思ふは、いかに」と宣(のたま)へば、家老共、「誠に目出たき御思慮」と、謹んでぞ申しける。扨(さて)、「使者には中島可之介(べくのすけ)を遣(つかは)すべし」と宣へば、久武内蔵助、「此の者は若年」と申し、「遂に他国を見たる事もなく候へば、覚束(おぼつか)なし」と申しければ、「いやいや、元親、見所(みどころ)あり。老功にも劣るまじきぞ」と宣ひて、可之介に極まりけり。
 此の可之介と申すは、背高く、色白く、勇気ありて烈(はげ)しからず、朝に武を勤め、夕には文を学び、和歌に心を寄せ、優にやさしき若者なり。彼、常にいひけるは、「我は元より小身なれば、席に臨む毎に、終に座上に着く事なし。「可」の字は、上にのみ置く文字なれば、切(せめ)て名なりとも、是にあやからんと思寄りたり」といひけるとかや。
 可之介、尾州に至りて、斉藤内蔵介は、元親内縁の由緒あれば、内蔵介を頼みて、明智日向守に謁し、書簡を差し出す。
 其の後、信長卿、可之介を召し出され、四国干戈(かんか)の事共お尋ねあり。委細に申し上げければ、信長卿、莞爾(かんじ)と笑わせ給ひ、
「元親は無鳥島の蝙蝠なり」
と仰せければ、可之介、謹みて、
「蓬莱宮のかんてんに候」
とぞ答ひける。
「当座即妙の返答使なるかな」
と、大に御成賞あり。斯くて御暇を下され、御返簡に左文字御太刀、栗毛の御馬を弥三郎にぞ給ひける。

対惟任日向守書状令披見候。仍阿州而在陳尤候。弥、可被抽忠節事、肝要候。次に字之儀、信遣之候。即信親可然候。猶、惟任可申候也。
   十月廿六日   信長(朱印)
         長宗我部弥三郎殿

 可之介、帰参して、是を棒げしかば、元親父子、斜めならず悦び給ひ、御礼として、信親より、加久見因幡をして、長光の御太刀、金子1枚、大鷹2連、進上あり。元親より、中島吉右衛門をぞ遣はされける。
 さる程に、可之介、尾州にての次第、委細に聞し召し、宮内少輔、「さればこそ、予が目金は違はざりけり」とて、高知を与へ給ひければ、今こそ誠の可之介にはなりたりけり。

※『土佐物語』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441712/180

【現代語訳】 その頃の織田信長は、天下人としての器を持ち、回天(天下の形勢を一変させる事)の勢いであったので、長宗我部元親も、「今から仲良くしておいた方が良い」と思い、使者を派遣し、絶えず連絡を取っていた。
 ある時、長宗我部元親は、家老衆を呼び寄せ、「嫡男・弥三郎は、今年、既に11歳になり、そろそろ元服である。織田信長に烏帽子親を願い出て、実名(じつみょう。諱)の字を決めてもらおうと思うのだが、どうか?」と言うと、家老衆は「誠に目出度いお考えである」と謹んで申しあげた。さて、長宗我部元親が「使者は中島可之介にする」と言うと、久武親直は、「彼はまだ若い。土佐国から外に出たことがなく、心配である」と言うと、長宗我部元親が「わしの目には、見所ある人物に見える。(ボーと生きてる)老人には負けない」と言ったので、中島可之介に決まった。
 この中島可之介という人物は、背が高く、肌の色は白く、勇気はあるが、気性は荒くない。朝方には武術の鍛錬をし、夕方には読書し、和歌も詠める心優しき若者である。彼が、常に言うのは「私は身分の低い出であり、上司に呼ばれて列席しても、席は末端で、床の上に座ったことがない。「可」の字は、漢文では、「可~」と、「~」がどんな漢字であっても、その上に置かれる字であるから、『せめて名だけでも、一番上に立ちたい』と思って名乗っている」と言っていたそうである。
 この中島可之介、尾州(尾張国。別名「(蓬莱島(熱田)に蓬莱宮(熱田神宮)がある)蓬州」)に行くと、まずは、長宗我部元親の正室の義兄(姉の夫)・石谷頼辰の実弟・斎藤利三に挨拶に行き、明智光秀に取り次いでもらって謁見し、長宗我部元親の(織田信長に嫡男の烏帽子親になっていただきたいという)書状を渡した。
 その後、織田信長は、中島可之介を呼び出し、四国の戦況を尋ねた。中島可之介が詳細に伝えると、織田信長は、にっこり笑い、
「長宗我部元親は無鳥島の蝙蝠なり」
(長宗我部元親は、向かうところ敵なしだな。)
と言うので、中島可之介は、謹んで、
「織田信長殿は、蓬莱宮の漢天に候」
(織田信長殿は、熱田神宮に住む玄宗皇帝に見えます。)
と応答した。織田信長は、
「即座に上手いこと言うなぁ」
と称賛した。
 こうして、(織田信長は、長宗我部弥三郎の烏帽子親となり、「信」の1字を与えて、「長宗我部信親」と名乗らせるという)書状と、左文字の太刀、栗毛の馬を贈った。

取次・明智光秀に対する書状を見させてもらった。土佐国から阿波国への侵攻は尤もな事である。(父上におかれては)ますます忠節を尽くして励まれることが重要である。(このまま、同盟者として、我が宿敵・阿波三好氏を倒していただきたい。)
次にあなたの実名(諱)の字のことであるが、私の名の「信」の1字を与えるので、「信親」と名乗られればよかろう。詳しくは明智光秀から聞いて下さい。
   天正6年10月26日   織田信長(朱印)
     長宗我部弥三郎殿

 中島可之介は、土佐国へ戻り、織田信長の書状や贈り物を掲げたので、長宗我部元親・信親父子は、大変喜び、織田信長への御礼として、長宗我部信親からは、加久見因幡守を使者として、長光の太刀、金子1枚、大鷹2連、進上した。長宗我部元親からは、中島吉右衛門を使者として遣わした。
 さて、中島可之介の尾張国での織田信長との対面の様子が詳細に伝わると、長宗我部宮内少輔元親は、「それみろ。私の目利きは正しかった」と言って、中島可之介に高知城を与えたので、名実共に「可之介」になった。(とはいえ、長宗我部家臣団に中島可之助と比定できる人物がいないため、『土佐物語』の著者による創作の可能性が高い。)

2.難解な(?)やりとり


織田信長「長宗我部元親は、無鳥島(四国)の蝙蝠(コウモリ)に候」
中島可之助「織田信長様は、蓬莱宮(熱田神宮)の漢天(玄宗皇帝)に候」

「鳥なき島の蝙蝠」とは、「鳥なき里の蝙蝠」とも言い、「鳥のいない島では、こうもりが我が物顔で威張っている(空を制している)」という意味で、「すぐれた者がいないところでは、つまらない者が幅をきかす」という諺です。
 織田信長は、中島可之介に「我が主君・長宗我部元親は、次々と敵を倒している」と、四国の戦況を聞いてから言っている。意味するところは、
【称賛】諺の意味するところとは異なるが、「長宗我部元親は強いなぁ。鳥なき島の蝙蝠みたいだなぁ。このペースならすぐに「鳥なき島」(四国)を制するだろう」と称賛した。
【罵倒】「井の中の蛙、大海を知らず」。四国には、(三好宗家が滅亡して)長宗我部元親以外に強い武将はいないので勝てるのである。思い上がるなよ。(【からかい】「この田舎者め(笑)」とからかった程度だとも。)
【忠告】「井の中の蛙、大海を知らず」。四国には、(三好宗家が滅亡して)長宗我部元親以外に強い武将はいないので勝てるのである。「勝って兜の緒を締めよ」。思い上がらず、細心の注意を怠らずに、これからも励め。
等が考えられますが、「元服」というお目出度い話の場ですので、①でしょうね。

 さて、「長宗我部元親は、無鳥島の蝙蝠だ」と言われた中島可之助は、「織田信長様は、(~場所~)の(~鳥に似た生物の名~)だ」と即時に返さないといけません。毎夕、読書していた中島可之助は、「蓬莱宮のかんてん」と即答しました。「尾州」の別称が蓬莱に基づく「蓬州」であることを知っていたのでしょう。主君・長宗我部元親は秦氏(日本に蓬莱を求めて、伊勢国桑名(熱田から船で7里(28km))にやってきた徐福一行の子孫?)ですし。
 私なら「蓬莱島(「熱田」の別称)の鳳凰」と応答します。鳳凰は「鳥の長」ですから、鳳凰以上の鳥はいません。(ちなみに「獣の長」は麒麟で、鳳凰は徳のある地に降り立ち、麒麟は仁のある地に現れます。)

 また、中島可之助は、「無鳥島の蝙蝠」を諺の意味通りに解釈して、「我が主君・長宗我部元親は、「無鳥島の蝙蝠」(井の中の蛙)ではありません。「蓬莱宮のかんてん」です。バカにしないで下さい」と織田信長に言い返したとする説もあります。

「かんてん」については、
① 「寛典」説:織田信長を「寛大な主君」と褒めたとも、長宗我部元親を「寛大な主君」と褒めて言い返したとも。それとも、「無鳥島の蝙蝠」を褒め言葉ととらえ、「蓬莱宮(織田信長の居城の美称)様(織田信長様)のあたたかき御言葉」ということか?
② 「寒天」説:寒天の原材料は「テングサ」。織田信長に「あんたなんて天狗さ(いい気になってるだけさ)」と言い返したという。しかし、寒天が発明されたのは江戸初期であるから、時代が合わない。
③ 「漢天」説:「天の川」のこと。織田信長を「(空といえば鳥ではなく、天の川のように)スケールの大きな主君」と褒めたとも、長宗我部元親を「(空といえば鳥ではなく、天の川のように)スケールの大きな主君」と褒めて言い返したとも。また、「漢天」は、逆に「スケールが小さいこと(井の中の蛙)」にも通じます。蓬莱山は壺の形をしていて、仙人は壺の中の蓬莱宮に住んでいます。見上げても壺の口からしか空の一部が見えるだけです。
鳥の名説:先に書いたように、「無鳥島之蝙蝠」に対し、私なら「蓬莱島之鳳凰」と対句で答えますが、「蓬莱宮の」とした時点で破綻していますから、次の「かんてん」が鳥の名でなくても違和感ありません。「かん」「てん」という名の鳥がいるそうですが、「蝙蝠」「鳳凰」と違い、相手に通じるのかな? それに「蝙蝠」は鳥ではありません。鳥であるなら「無鳥島」には住んでいません。(熱田神宮、津島神社、安芸の宮島といえば、蝙蝠のように黒い「烏」ですけどね。)
と諸説ありますが、文脈的に、織田信長は、長宗我部元親を「すごい。田舎に置いておくにはもったいない」と褒め(実際、織田信長は、長宗我部信親の実力を高く評価し、「長宗我部元親の嫡男ではなく、次男以降であったら養子にしていた」と言っていたとか)、中島可之助は、それ以上の賛辞で織田信長を褒めた、だから、織田信長は喜んで、長宗我部信親の烏帽子親になってくれたのでしょう。

 ──では、「蓬莱宮のかんてん」とは?

「蓬莱宮(楊貴妃の熱田神宮)の漢天(漢の天子=漢詩「長恨歌」に出てくる唐の玄宗皇帝)」でしょうね。中島可之介は読書家ですから、当然、白居易の漢詩「長恨歌」は知っているでしょう。もちろん、織田信長も知っているでしょう。
 陳鴻『長恨歌伝』によれば、漢詩「長恨歌」は、白居易、陳鴻、王質夫の3人が仙遊寺に集まり、唐の玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを語り合った時、王質夫が「白居易は詩が得意だから、今回の話を詩にすればどうか?」と提案して出来た漢詩だそうです。とはいえ、政権に配慮して、漢天(漢の天子・武帝)の話に置き換えています。

忽聞海上有仙山 聞く所に海上に仙山あり。
其中綽約多仙子 そこには、若くて美しい仙女がたくさんいた。
中有一人字太真 その中の太真という女性は楊貴妃に似ていた。
聞道漢家天子使 聞けば、漢の天子の使いであるという。
蓬萊宮中日月長 長安よりも、蓬萊宮で過ごした月日の方が長くなった。

 玄宗皇帝は、消えた楊貴妃を方士に探させます。楊貴妃(実は熱田大神)は、船に乗って知多半島の愛知県知多郡美浜町内海に着岸し、蓬莱宮(愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮)に帰っていたとのことです。(そもそも、熱田大神が楊貴妃に化けたのは、玄宗皇帝の日本侵攻を、色香で惑わせて防ぐためでした。「熱田大神=日本武尊説」があります。日本武(やまとたける)は、少女に化けて九州の王・熊襲武(くまそたける)を討った経験があるので、選ばれたのでしょう。)
 玄宗皇帝は方士に楊貴妃を探させました。方士は、楊貴妃に蓬莱宮(熱田神宮)で会い、その証拠に、簪(かんざし)と、楊貴妃が「7月7日に、楊貴妃と玄宗皇帝が、天にあっては、願わくは「比翼の鳥」となり、地にあっては、願わくは「連理の枝」となりたいという言葉を交わした」という思い出話を持ち帰りました。そして、玄宗皇帝は、「確かに楊貴妃の簪であるし、その思い出話は2人しか知らないはずだ。楊貴妃に間違いない」と確信し、楊貴妃を追って熱田に来て、八剣宮の御祭神になりました。つまり「蓬莱宮(熱田神宮)の神=楊貴妃、八剣宮の神=玄宗皇帝」であって、「蓬莱宮の漢天」ではなく、「八剣宮の漢天」なのですが、まぁ、良しとしましょう。

 さて、織田信長は、熱田神宮で熱田大神(楊貴妃)に戦勝祈願し、桶狭間に向かうと、「熱田神宮の神風」が吹いて、「海道一の弓取り」こと今川義元(ちなみに、長宗我部元親は「四国一の弓取り」と呼ばれていました)を討ち取ることができ、見事な全国デビューを果たしました。熱田神宮は、織田信長にとって重要な神社で、織田信長は、塀を寄進したそうです。

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「此の可之介と申すは、背高く、色白く、勇気ありて烈しからず、朝に武を勤め、夕には文を学び、和歌に心を寄せ、優にやさしき若者」という武士の鑑であったからこそ、
・ここは尾州=蓬州
・熱田神宮(蓬莱宮)→熱田大神(楊貴妃)→「長恨歌」→漢天
・熱田大神は織田信長を助けた。→織田信長は玄宗皇帝の生まれ変わりか?
と頭脳を働かせて「蓬莱宮のかんてん」と即答することが出来たのです! そして、その才能を見つけた長宗我部元親も凄い!

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