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1973年 ハワイへ家出してみた(1/4)
「吉岡…頼むワ。 わしのクラス、担任やで。 他でやってくれよ。」
高校3年の春、期末テストで英訳が0点にとってしまった私がハワイへ家出しました。
18才の春頃からグレ始め家出を繰り返し、一生話すことないと思っていた英語の国ハワイへ渡米しました。 70才を過ぎた今、人生のターニングポイントとなった経験を振り返ってみました。
若いってことは素晴らしく、楽しく、悩み多く、色々なことを経験することができました。 また自分の選択と決断で人生が変わっていくことも、皆さんと同じくきっと平等だったんだなと納得しています。
ただ、
その時々もしも自分が違った選択していたなら...?
と、思い返すのが年を重ねることだと思いNOTEにしてみました。
ご訪問感謝です
親を選べないことは悪いことばかりではない(私の場合)
良かったのか悪かったのか...未だわかりませんが、自分自身の選択を勇気を持って歩んだ結果、素晴らしい伴侶にも恵まれ今は幸せで満足な生活を楽しんでいます。 好きではないが決して両親を否定するものではなく、私にとっては両親に育てられたことが一番の我慢強さに繋がり強固な決断力を養なってこれたことだけは感謝している。
50年少し前までの頃、当時南国への海外旅行は沖縄でした。 ハワイは社会全体が知る一番有名な常夏の夢の国と言われていました。 ただそれはそれは遠くて手の届かないところで、夢の国ハワイと表現されていました。 英語も話せないし嫌いな私が、このハワイ(米国)社会で嫌なことも多々あったものの、なにより人生を一変させる素晴らしい機会を与えてくれたことに本当に感謝しています。
長男の役割?
高度成長期にのって昭和30年代後半に一代で成功した家庭の4人兄弟2番目の長男として生まれました。 私が小学校低学年までは決して裕福ではなかったものの大きな不自由はなかった。 5年生の頃からは裕福になった環境で、傲慢で体裁ばかり繕う父、嘘を平気でつき人と比較ばかりする母、彼らから日常的にDVを受け彼らの意のままに育てられました。
それまで全く反抗期の無かった私は、遅ればせながら高校3年生の春に突然自我に目覚めた。 この時代の社会はDV(暴力)は時として愛の鞭として言われ、私の家出は自我に目覚めDVの恐怖心がなくなった頃に居場所が無いことに気付いた時からだった。
小学6年生の時に、2kmほど離れた会社に不審者がいるようだと会社の隣人から家に電話がると、母は12才になったばかりの私にバット持って見てこいと行かされた。 また行きたくもない大人の映画を見に行くのにいつも私を連れて行った。
父と言えば、幼稚園から小学校低学年のころまで良く泊りがけで釣りに連れて行ってくれた、が、それはカモフラージュでいつも浮気相手の女性と一緒だった。
19の時にはチンピラに言いがかりをつけられたと私を盾に逃げ帰った。 すでに父とは全く関わりのない違う業種で起業していた40才前のある早朝5時過ぎ私に電話があった。 父の会社とは全く縁も何の関係もない私に、父の会社へやくざが来るから来てくれと言うので、跡取りの弟がいるだろうと断ると「親父がどうなってもいいのか」と何故か怒鳴られた。 午前7時半に嫌々応援に行くことにした。
応援のはずが、父はおろか跡取りの弟すらそこには居なかった。
逃げてるし…
こんなこと盛り沢山に可愛がって?もらい疑問だらけのお付き合いでした。
これが長男の役目なのか?
色んな所へ行けた >=< なかなか辛い気もする
やはり私は彼らの捨て駒道具なんだなと思いつつも親だし仕方ないかと思うことにしている。
長男だった私には特に厳しく育てられたが、手が付けられないほどグレて反抗したので他の兄弟には居心地がいい家庭に変わっていたようだ。
家出前の生活
当時の学校は土曜日が午前中半日あった。 高校1年生になって直ぐのある日の土曜日学校から戻ると、父が帰宅していて忙しく着替えをしていた。
私: ただいま~
父: 帰ってきたか…
余所行きの服に着替えてジャケットを着ろ
私: どこいくの?
父: ええから、急いで着替えたらええ
母: ゴルフ連れてってくれるって
五月蠅いから早よ着替えて行って
母が用意してくれた服に着替え、急いで車に乗飛び乗り
父: ゴルフに連れて行ってやる
と、都心のゴルフショップへ直行。
ゴルフショップへ着き急ぎで、ゴルフクラブハーフセット、スパイク、ゴルフズボン、ポロシャツと初めて見るビギナーセットをぱぱっと15分ほどで買い揃えた。
両手に買ってくれたものを抱えダッシュで車に駆け込み高速道路へ、およそ1時間強かけて名門ゴルフ場へ急いだ。
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プロゴルファーとの出会い
おNEWのゴルフウェアにささっと着替え1番スタートホールへ。
ティーグランドへ行くとすでに所属の奥田プロが待っていた。 父と私と3名+キャディさん2名(当時キャディがバッグを担いでラウンド)で、よぉ~いどんとはじまりました。 ティーグランドに上がると、これまで見たこともない優しく面倒見のいい父になり、ティーを立てボールを乗せ、おNEWのドライバーを私に渡してくれた。
いきなりでした。
父: さぁ打て!
私: えっ!?
これどう持つの?
小一時間前に買ったクラブの握り方もわからない。
父: 野球と同じや、バットと同じやっ
早よ打てっ
私: [無茶苦茶やなぁ?]
とつぶやきとりあえず打って?振ってみた。
力任せに振ったら空振りした。 再度振ってみたらまた空振り、また振ってみたら空振りと、5~6回くらいは空振りした。 まず当たるはずもない、空を切るかボールから離れた地面とクラブを傷つけるだけだった。
父: ボールを良く見て振れ
ちゃんとボールだけ見ろ
下手やな
って、言われてもじっとしているボールには掠りもしません。
私: そんなん当たらんやん
見かねたプロ が近づいてきて、優しく声をかけてくれた。
奥: いつからゴルフ始めたの?
私: 今です
奥: あらら、それはそれはびっくり大変やね
少し素振りをしてみようか
クスっと笑顔で、優しく丁寧に、クラブの持ち方、立ち位置、振り方を教えてくれた。 何度か素振りを繰り返し、
奥: さ、素振りのようにスィングして打ってみようか
と教えられるままにブンと振ってみたところ当った。
と言ってもチョロ。
ボールは地面を20ヤード(18m)ほど転がっていった。
父: 5番アイアン持って、走って打ってこい
私: 5番? […なにそれ?]
と、またまた無茶ぶり。
ちなみに奥田プロはロングヒッターで有名なプロで、後々思えばこの時とんでもなく飛ばしていました。
キャディさんが渡してくれたクラブを持って走ってボールのところへ行き、ブンブンと素振り空振りからのチョロと小刻みにボールと格闘が始まった。
1番ホールを終えると、またプロが近づいてきて沢山教えてくれる。 2打目以降もプロが傍にいてくれてレッスン。 まぐれで空へ飛んでいくこともあった。 7ホール目、ティーショット第一打がたまたま空にしかも真っ直ぐに飛んだ。 2打目もまぐれが続き真っ直ぐ、しかもピン傍にボールが止まった。 パターも1回で入るといういうミラクルなまぐれ奇跡が起きた。 バーディとやらをとれた。
ただ空振りは沢山したので数えていません。
当時ゴルフは、お金持ちのステータスだったもので、当然コースはガラガラなため、前後に迷惑かけることなく走り回ることができました。
面白かった。
私はもっとしてみたかったが、このてんやわんやの格闘に懲りたのか、その後暫くはゴルフには声がかからなかったので、一人で近所の打ちっ放し練習場へ行って練習していた。
2か月ほど経ったある金曜日の夜
父: おい明日ゴルフ行くぞ
朝5時半に出発や
私: この前のところ?
父: 違う、もっといいところや
翌朝父は4時過ぎには起きて、食事も済ませており、私は5時に起き朝ご飯も食べずに準備して、父のボストン、キャディバッグと私のものと車に乗せて出発。
着いたゴルフ場は初めて行ったコースとは違い、国内でも名門ゴルフ場だった。 さっさと着替えてレストランへ。 父は、ラウンド前にはいつもコーヒーを飲んでいたようだった。 父の友人も現れ、皆でコーヒーを飲みながら談笑して、いざスタートと階下のキャディマスター室前に移動した。
父: おい お前はちょっと待っとけ
マスター室の横にあるドアを開け、入ってくので私もついて入りました。
そこには日本を代表する新田ヘッドプロ、野田プロ、山口プロの3人が居ました。
山口プロはこの時まだプロテスト前で、この夏に日本最年少で一発プロテストに合格、後に日本の若手のホープとなりました。 また、1年後には、兄弟子渡部さんが全日本学生チャンピオン、全日本アマチュアチャンピオンになった、すべては新田ヘッドプロが育てたのです。
父: 先生、これが息子です、今日はよろしくお願いします
私: はじめまして
父: 先生の言うこと良く聞いて、教えてもらえ
私: よろしくお願いします
新: どうぞよろしく
この先生新田プロは、ゴルフ場のヘッドプロで、教え上手で当時教えてもらったことはすべて今の時代の理論と同じことでした。 すべて実践して見せてくれました。
午前中は、練習場でスィングの基本をレッスンしてもらい、午後から贅沢にもヘッドプロ、キャディさん2人と私。
キャディさんはバッグを担いでのラウンド。
一打一打、振り方を教えてもらいながらのラウンドで、ゴルフにのめりこんでいくきっかけの一日となりました。
帰って1か月ほどは、覚えていることを近くの打ちっ放し練習場へ行って練習していた。
夏休みが始まる日の前日のことでした。
父: 明日ゴルフ行くから
3日間分の服(着替え)を用意しろ
私: ??? […泊りがけ?]
翌朝ゴルフ場へ着くと、またまた先生のところへ、次にゴルフ場の理事長のところへあいさつ挨拶に行きました。
「頑張って練習しなさい」と理事長から声をかけられた。
その後プロ室へ連れていかれ、
新: 今日からはプロと同じ環境で練習やで
迷惑かけたり邪魔は絶対あかんで
私: はい、迷惑かけません
新: 疲れた、嫌だ言わないか? 約束守れるか?
私: はい、言いません、守ります
新: よし、練習場へ行こ
練習や午前中はとにかくボールを打つ、野田プロも山口プロも既に始めていた。
午後にはラウンドできるようだ。
なぜか嬉しいプロにでもなったような気がした。
お昼ご飯を一人で食べていると、父が1ラウンドして上がってきてレストランへ現れた。
父: どうやった?
私: 少し疲れた…手と腕が痛い
父: そうか
10番ティーグランドの横を進むとチャンバー宿泊所がある
今日はそこへ泊って、明日も練習しとき
この時、ようやく事の次第が見えてきた、3日分の着替えは週末土曜日までの着替えだったこと。
理事長と先生への挨拶は、これからお世話になるためのご挨拶。 学生なので贅沢は禁止、その代わり安く練習させてもらえプロに教えてもらえることになっていたようだ。
この贅沢は禁止が、この日の午後に思い知らされることになることを知る由もなかった。
ランチを済ませ、プロはプロ室でゆっくりと昼寝したりくつろいでいた。
私はプロ室には入っていけず、外に居た時、先生に呼ばれた。
新: よし、ラウンドしよか?
私: ハイっ! …[うれしい]
新: そこにあるキャディバッグと自分のバッグを持って
1番ティーグランドへ先に行っといて
私: はい […あれ? キャディさんは? 後からやな…]
ティーグランドで待っていると、先生と山口プロが来た。
新: よし、下手くそ順やから、あんたからや
私: 僕ですか?
山: そやで~ 下手もん順やぁ
私: 緊張してるから、後で打てませんか?
山: 後の方がもっと大変やで~
と、プロは楽しそうでした。
あきらめて手足がガクガク震えるのを感じながら、ありったけのチカラでブンとお約束のチョロからのスタート。
新: ボール持ってるか?
私: はい
新: もう一度、ここを気を付けて打ってみ
ブンと振りびゅ~んと飛んでいくも、コース内には留まらない。
プロは、バシッとビシューンと風を切る音とともに遥か彼方へ飛んでいった。 あまりの豪快と格好良さに鳥肌が立ち憧れずにはおれず、モチベーションが一気に高まった瞬間だった。
山さんが、さっと自分のキャディバッグを肩に担ぎ歩き始めたので、私も同じように担いで歩き始めたところ
新: おいおい、わしのキャディバッグも持って行かんか
私: えっ?
新: 今日から、わしのバッグも持つんや
私: はい 「…マジか?]
新: 2個目のボール走って拾っておいで
と、こんな練習が始まった。
私のバッグにはハーフセット、プロのバッグには当然フルセット14本に加えてメーカーから支給されたでっかい重い本革のキャディバッグで、担ぐ度にいつも小声でメーカーを罵った。
チョロ、天プラ、スライス、チーピン、OBに池ポチャとミスショットのフルコースに右に左に走りながら進んだ。
フェアウェイの遥か前から声が、
新: おーい、何しとるんや?
早よクラブ持って来い
って、
ほんま殺生な自分の守りもできんのに。 がむしゃらにはしる走る、振っては担いで走る、マラソンのようにとりあえず走った。
真っ直ぐ進むプロにジグザグに進む私は、走り回っても追いかない。
「なんでねん、なんでキャディさんがおらんのや」と思いつつも、ただ必死にボールを前に進めていた。
これが、学生は贅沢禁止の意味、プロとの約束だったのでした。
ヒィヒィぜいぜい右往左往と四苦八苦しながらなんとか日暮れ間には、ハーフ9ホールを終えることができた。
疲れた、言葉も出ない、汗しか出ない、16才の夏が始まった。
少し慣れてきたころ時期には、ラウンドから上がってくると、また練習場へ。 午後5時半くらいになるとパター練習場へ行き、アプローチ練習、日が沈み始めるとパター練習と毎日12~3時間ほどの練習していた。
初日が終わって、チャンバー宿泊所へ行くと管理人の年配のご夫婦が部屋に案内してくれた。 シャワーを浴びて、晩ご飯を聞いてみると無いとのことで、慌ててレストランへ行こうとすると、管理人のおばあちゃんが「もう終わってるよ、今夜はうちもご飯が残っていないの ごめんな」と。
が~ん! 晩ご飯抜きになった
あきらめて、水をたくさん飲んでベッドに横になった。 お腹がすいていることも忘れ、すぐに眠れた。
朝起こされて、慌ててレストランへ行ってご飯にありつく。
[MEMO]
ご飯はレストランが開いている17:30までに必ず食べること。
時間に食べれないときは、レストランでおにぎりお願いすること。
レストランが早くしまったときのため、お菓子を準備。
この時代に、今のようにインタスタント食品が沢山あればよかったと思います。
こんな日々を2週経ったときに、山さんがお昼休みに声をかけてくれた。
山: おい、チャンバー誰も居らんから淋しいやろ?
私: 管理人のおじいさんとおばあちゃんが話し相手になってくれるよ
プールもあるし、腫れて痛い手と腕をプールにつけて冷やしてます
ただ、晩ご飯にありつけん時があってきついんです
外に出るにも真っ暗で、近く町までのも時間かかるみたいで
山: そら暗闇4kmは無理やな
俺んとこへくるか?
私: えっ!? 本当ですか?
山: ええよ、狭いけど一人くらい何とかなるよ
晩飯も練習が終わって一緒に食べたらええよ
私: ありがとうございます、よろしくお願いします
この日から真っ暗闇のゴルフ場ではなく、田舎の町に移動し駅前にある山さんの下宿先で居候させてもらうことになった。 少しパシリすれば快適。 晩ご飯も町中華、焼き肉、定食屋で毎晩ありつけることができた。
特に山さんファンの練習場のお姉さん(おばさん)達、キャディマスター、キャディさんにも可愛がってもらえ、金魚の糞の私もご飯をいつも食べさせてもらっていた。
本当にゴルフが好きになりました。
練習場のボール拾いを偶にお手伝いすることで、ただで打ちっ放し練習ができ、ラウンドは家族会員ということで当時2400円+朝昼晩ご飯代にチャンバー宿泊費1泊1200円。 安いとはいえ、当時の月額にしてみれば、かなりの贅沢だったのは間違いないです。
両親も居なく煩わしいことは何も考えず、ただゴルフに没頭する充実した2年間でみるみる上達していった。
また、新田先生と山口プロとの出会いは、ゴルフの技術はもちろんだったが、それ以上に、忍耐、鍛錬、継続力が今後の私の人生に大きな影響に繋がったことは間違いない。
![](https://assets.st-note.com/img/1737076239-FauVZhzljM1LWcxP3OmNiv7t.jpg?width=1200)
悪魔の差ささやき~の煩悩の目覚め
学校以外はほとんど友好関係がなくなるほど、平日も打ちっ放し練習とランニングに素振りとゴルフ練習漬けの毎日を過ごしていた。 とはいえ2年生の夏休みも終わる頃になると、近所の中のいい幼馴染が誘ってくれてはじめて近所の喫茶店へ行った。 その友人達と接する機会が徐々に増えてきた。 彼らは頻繁に近くの喫茶店でたむろしていた。 このころの喫茶店はいわゆる不良が集まるところとして見られていた。
たまに誘われていくと、彼らは煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいた。 中にはシンナーをする奴もいたようだが、ゴルフに夢中な私にとっては興味の無いことだった。
彼らと過ごす時間が増えてくると、交友範囲がぐっと広がりさまざまな情報が飛び込んでくる。
普段山の中で大人に混じってただひたすら小さなボールを追いかけてる私にとっては、本当に青春真っただ中の話が多くとても刺激的で魅力的に聞こえた。 自分の生活とは全く違う異次元な世界の話していて楽しそうに見えた。 当然興味をそそられていくことになる。
特に女の子との遊びや恋愛話には特に盛り上がり、聞くたびに羨ましかった。
友: 爺さんみたいに留まったボール打って楽しいか?
私: そら楽しいで、ようやく上手くなってきたし
友: ふ~ん
お前女おらんやろ?
紹介したろか?
私: 紹介?それどういう意味や?
友: 俺らの彼女に聞いて友達探して会わせたるということや
私: …休みは家に居らんからな、山の中やしな
この時代、ゴルフは金持爺さんの遊びと認識されていたので、彼らにとって退屈な話題で私もほとんどゴルフの話はしなかった。 ゴルフをしない日は、こうして彼らの話を夢中に聞くばかりでした。
ダンスホール、同伴喫茶、個室喫茶、レンタルルームに連れ込みホテル、おまけにジンフィズ、ハイボール、コークハイ、LARKにハイライト、女の子との(1)ワン、(2)ツー、(2.5)ツー半、(3)スリーに加えてなにやかにやと隠語や聞き慣れないが言葉が飛び交っていた。
彼らの生々しい体験話を聞く耳がどんどんと大きくなっていった。 そればかりか聞いているうちに、どんどん引き寄せられていき自ら喫茶店へ足を運ぶことようになっていた。
煩悩が芽吹く
私はキャディさんや練習場のお姉さん達に自分の子供や孫のように可愛がってもらっていた。 よく「あんたは本当に素直で奥手でおぼこい子やなぁ」と言われていた。
この時期私よりも2つ年上のアシスタントプロ(研修生)の堀口(ホー)さんがプロ見習いとして入ってきた。 彼もまた山さんの下宿先で寝泊まりしていた。 年が近いこともあり、色々な話を聞かせてくれた。 彼にいつも子ども扱いされていて、大人な自分を「どやっ」と言わんばかりに自慢げに話してくれた。
特に鮮明に覚えていることは、
ホ: お前知ってるか? おっぱいが大きいかどうか見分け方?
私: 知らん、考えたことない
ホ: 教えたろ
ブラジャーの背中のホックの位置が腰に近いほど大きいんやで
私: そうなんや、知らんかった
と衝撃的なことを教えてくれたり、今思えば他愛もない話ばかりしていた。
そんな夏のある日、練習場で練習場のおばさんやキャディさんと休憩していた時でした。
ホ: おい、食堂のみっちゃん知ってるやろ?
私: だれ?
ホ: わからんの?
食堂の毛の長いお姉さんいてるやろ?
お前のこと好きらしいぞ
私: えっ? そうなん?
ホ: マジか? 気付かんかったんか?
私: うん
それでやコーラでもなんでもサービスしてくれてたんや
練: この子疎いんやねぇ
おぼこいんやね
私: 疎いって、どういうこと?
練: 気付くの遅いってこと、鈍いってこと
ホ: 明日のみっちゃんの昼休みに話したり
私: どこで?
何話すん?
恥ずかしいやん
ホ: バンカー練習場で話したらええ、誰も周りにおらんし
あっちが話してくれるから心配すな
今日そういうと言うとくわ
この時みっちゃんが、手編みの毛糸のクラブ用のヘッドカバーをプレゼントしてくれた。 後でキャディさんに教えてもらった、1番・3番・パターの3つをヘッドカバーを毛糸で編むには大人のセーター1着以上の毛糸が必要になるとのことでした。 父が来たときに、この毛糸のヘッドカバーやサービスのことを話すと、「ご飯でも連れてってやれ」と1万円くれました。 それで、晩ご飯行きましょうと誘ってみたら快諾してもらった。 とはいえ、どこに行けばいいのかもわからないので、みっちゃんにお願いした。
30分程電車に乗って、みっちゃんが知っているお店へ、ちょっぴり大人な世界へ誘ってくれた。
思えば、これが初めてのデートで初恋になった。
居心地良い時間をもっと一緒に居たかった
支払いも、父から預かったお金を見せて話したが、私がまだ高校生だからとご馳走になった。
なおゴルフ?ゴルフ場が好きになった
もっと上手くなると決心した
プロとのラウンドは、必ずと言っていいほどギャラリーが見に来ます。 もちろん、私ではなくロングヒッターで日本一綺麗なスィングで有名な山さんのショットを見るためにです。 沢山の人の目のプレッシャーにも慣れ、下手くそ順で打つ私にも皆さん「思いっきり振ったれ」といつも激励してくれる。
いつの頃か、人目がある方がいいショットを打てるようになっていました。
期末テストが終わると終業式と始業式にはデス、電車で1時間半ほどかけてゴルフ場へ夏なら40日間ゴルフ場にいて練習に励んだ。 学校のある時は、土曜日や日曜日に父に連れられて行くこともある日を過ごしていた。
そんなある日、父がゴルフ場へ来た時に私の耳元でボソッと。
父: おい、ちょっとこっちこい
私: はい
父: 絶対プロになろうとは思うな
こんな水商売はないんやからな、わかったか?
私: …
父: そんなためにゴルフはさせてないからな
体を鍛えるためや
私: 鍛える? なら、野球部のままでよかったやろ?
[ほんま意味不明や]
怪訝な顔をしていた私から、さっと離れ振り返り口に出す言葉はいつも同じでした。
父: 先生、またラウンドして教えてくださいよ
新: いつでも言うてください
私: …[先生先生って、二重人格か? 信じられん 許せん]
ゴルフの費用、新しい特注フルセットのクラブ、プロへの謝礼など費用が掛かっていることは理解ししつつも、まだ自覚できていなかった。
高校2年になると、かなり上達しました。 身長が180弱あったので、日ごろのトレーニングの成果もあり、アマチュアではかなりのロングヒッターになり、たまには印刷通りのスコアで回ることもあった。
日々の練習の成果も徐々に実り始めていました。
ただ、休みの日になると友人と過ごす時間が徐々に長くなり、ますます引き込まれていきました。 となると、ご多分に漏れず夜も外出するようになった。 門限9時を過ぎることもあった。
何かが自分の中で変わってきた気がしていた。
ゴルフに向き合う気持ちに変化しはじめた
ある日朝から練習場に居ると、父が4人の大人と都合5人で現れた。 ゴルフは最大一組4名です。
父: おい、今日この人Aさんや、レッスンしてやってくれ
午前中練習場でレッスンしたら、午後ハーフラウンドレッスン
頼んだで
私: えっ!?
父: Aさん、頑張って練習しなはれ
A: ありがとうございます
と、そそくさにさっさと友人たちと楽しそうにラウンドにでました。
唖然と見ていると、
A: おはよう、うわさは聞いています
今日よろしく
私: おはようございます
突然なことで、こちらで練習始めてもらえますか?
A: 了解
習っている私が教える?
慌ててプロ室へ走り先生に事の次第を話した。
新: そうか
教えてあげたらええ
私: 無理ですよ
新: なんでや?
自分に教えるように、復習するつもりでできるやろ
と、全く知らない大人との接触の始まりです。
この後のA氏から大きな注文を父の会社に出されたようだ。 味をしめたのかどうかはわかりませんが、父は、平日週末に関係なく頻繁に取引先を連れて来るようになった。 どうも父は自慢話をして、取引先の人達にゴルフを勧め、教えてあげますよと吹聴し接待し始めていたようだ。
私は、接待用の道具となったと思い始めました。 ある夜家で、あんまり頻繁に連れてくるのやめてくれないかと話すると、「お前になんぼお金かけてると思てるんや」と返ってきました。
確かに沢山の費用がかかっている。
はじめてきちんと認識したものの、「じゃ、やめたらええんか」と考えるようになった。
自我が目覚め
生まれて初めて何かに恐れることなく、自分が自分で居れる自分の居場所だと思っていたゴルフでした。 ジュニア選手権の練習日前の日、またお客を連れてきたので、「本当に堪忍してくれ、練習にいけない」年に一度しかない試合の練習ができないと話すも、結果は同じ堂々巡り。
そもそも私ゴルフをさせた理由は、色気の出てくる年頃になった私を山の中へ隔離することが目的だったと言われた。
プロゴルファーは水商売だと言い放ち軽蔑し、身体のためでもなんでもない、目的は私を都会の誘惑から隔離してみたら、父の営業道具として使えるようになっただけとしか思えなかった。
ゴルフに向き合う気持ちが少しずつ剥がれていった
こんな日々を頻繁に繰り返した頃、自分では経験のない何かが目覚め始め反抗するようになった。 ゴル場の以外での練習は少しずつ減っていき、机に向かう時間も減っていった。 かわりに増えたのは、喫茶店に行ったり、友人の家に行ったり、煙草に手を出し、パチンコにいったり、徐々にグレ始めていった。
![](https://assets.st-note.com/img/1726875313-PT40gsU1Drp5nRxABaemzCM7.jpg?width=1200)
育ててもらっている私には選択肢はない
両親の意のまま以外はNG
弁護士になる以外NG
プロゴルファーを否定
と感じていた私は、父と顔を合わせるとお金のことを言われはじめた。
グレちゃった
補導+家庭裁判所
3年生の春休みも終わるある日の夜、友人が5円を100円にする方法と話を持ち掛けてきた。 徹夜で5円玉を彼の言う通りに加工し、その週末にオールナイトで街中へ出かけた。 やはり悪いことはできません。深夜2時に補導され、深夜俳諧、飲酒、5円玉偽造と警察署少年課へ連れていかれる羽目になった。
父が迎えに来た。 近づくや否や途端に、ばこ~んと顔を思いきり殴った。 家に戻り正座させられ、こんこんとこれまで私に使ったお金のことを朝まで愚痴られ恩着せられることになった。
何ひとつ頼んだ覚えはない
あちこち塾に行かされたこと
柔道部から野球部へ変えられたと
家庭教師につけられたこと
私学に行かされたこと
ゴルフをしたこと
生んでくれとも頼んでない
これまで願ったことは全て否定され怒られた
とばかり考えながら、父が落ち着くのを待っていたら、「反省の色が無い、歯を食いしばれ根性叩き直してやる」と15分ほどボコボコに顔を殴られた。 本当に手加減なしで殴られた。
父も殴り疲れたようで、腰を落とし座った。
私は、「もう、ええやろ? 顔痛いから」と、父の寝室をでた私に、母は「自業自得や、言うことだけせんからや」と責め被してきた。 既に父より体形が大きくなっていたこともあったのか、これまで思っていたほど恐ろしく痛く感じなかったが、顔はパンパンに腫れた。
事情聴取のため、同日の午後1時に電車乗って警察署へ行きました。 刑事さんが私の顔を見て缶コーラをくれた、「大丈夫か酷く怒られたな」と驚いた様子を隠さなかった。
悪いことは続くもので、翌日顔の腫れも引いた夕方に、幼馴染の友人の田原が来た。
田: 今から、女といちゃいちゃできる土手へ行こうや
私: 嘘を言うなよ
田: ホンマや! 昨日も行って今日会う約束したで
私: ないない
田: Y君、M君、N君も行くで
私: どこいくん?
昨日、警察行ってきたから、今夜家居らんとまずいねん
田: 隣の地区の○○川の土手に女の子5人集まってるんや
大丈夫や日暮れ前には帰るから
私: そこ危ない場所違うんか?
田: 先週から毎日行ってる、大丈夫や
私を入れて5対5ということで、私は甘い期待をもち悪魔のささやきに弱い私は誘われるままでかけた。 そこには5人の知らない女の子はいなかった。 代わりに13人の悪ような男連中がいた。
[なんで~]彼らは、田原達が毎日そこへ行って女の子をナンパしていたことを知っており、待ち伏せしていたようだ。 私たち5人を囲むや否や「おい、お前ら人のシマで何やっとねん」と超お怒りで詰め寄ってきた。
「なんで? こうなるん もうやけくそや」私は前日のこともありむしゃくしゃしてたので、一番真ん中の偉そうな悪い子の胸倉をつかみ殴りかかっていきました。 こいつを離さず、とにかくどつきました。
結果は、ボコボコにされ、最後は下駄でどつかれて失神して終了。 友人4人(観客)のは応援手助けもせず、ただ怯んで見ているだけでした。 後日彼ら観客の吹聴のおかげで、13人を相手にしたと嬉しくもないレジェンドになった。
甘い誘いに乗ってしまったことで、お気にの服もボロボロに破れ悲惨な痛い目にあった。
甘い言葉に気をつけろ MEMO
気が付くと、4人が大丈夫かと肩をゆすっていました。 ハッと立ち上がり様に、「お前ら知ってて連れてきたな?」と怒りましたが、全くの予定外とのことだったので、急いで走って家に帰りました。 帰ると出刃包丁を持って出ようとしたところ、母が鼻血が出て服もボロボロの私を見て言った。
母: どこ行くんや?
私: 仕返しや
母: そうか、きちんと殺しこい
殺して来たら助けてやる
必ず、息の根止めてこなあかんで
私: …
包丁を投げ捨てて、部屋に入り、ただ仕返しすることだけを考えて寝ました。
後日、中学校の先輩取山さんと喫茶店で会ったときに、
取: ようやったのぉ
私: どこの奴か家探せませんか?
取: どこの奴かわかってるよ
私: 教えてくれませんか?
取: 俺の連れの後輩らしいんや
そいつが謝りたい言うて来とる
許してやってくれんか?
先輩とのやり取りで、謝りに来た時に許すことになった。
もう完全に箍が外れ自我を通しつづけ、両親のいうことと正反対のことをし続け反抗した。 後は想像に容易い勢いでグレた。
3年生の夏には彼女もでき、ゴルフ行く回数も減り、父の接待のお供も断り始めた。 どうしてもと言われたときも、嫌々行くようになりなった。 3年生の秋頃から色々とこれまでのこと振り返り、家の中に居る自分の存在に疑問を持ち始めた。 息苦しいこと、後ろめたいこと、誰もかばってくれる家族がいないこと、辛い日々だった。 私の兄弟姉妹も父が怖いゆえ、何も言えない言わない。
居場所が無い
もっと広い所へ行きたい
明るい明日を過ごしたい
家族の顔すら見たくない
家庭の事情で学校近くのアパートに住んでいた友人が、「俺のとこやたらいつでも泊まりにきていいよ」と声をかけてくれた。
初めての家出してみた。
すぐに居場所がばれ、探偵が現れた。
こんなことを繰り返していた。
年が明けて卒業月のある夜、もう正面向かって自活したいと決心し話をした。 耳を貸さない、またどつかれてた。
母も無視するだけならいいものを、一緒になって相手にしない。 いつも「お前が悪い」しか言わない。 私にとっては、母が一番のがんであったことは間違いない。
振り返ってっ見れば、幼少の頃から一度も守ってくれた記憶が無い。 無知ゆえに父にすがって生きてこれたのだと思う以外なかった。
このころに、また夜遅く家に戻ると、いつものように父の寝室に呼ばれ、また金の話をされた。
本当に頭に来た、切れた。
いつもいつもかねカネ金言いやがって、どんだけ小遣いくれてるんや?
普通の高校生と同じやろ?
ええ加減にしてくれ。
そんなに惜しいなら、もう一銭も使うな
ゴルフもやめる
全部兄弟のために使え、一円も俺には使うな
と啖呵を切った。
清々した。
が、より一段と卑屈な日々を過ごすことになりました。
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プッツン 最後の糸1本切れた
卒業の1週間前、担任に呼ばれた。
担: 昨日な教頭に呼ばれたんや
お前の親父が「卒業させんでくれ」言うてきた
私: えっ!?
そんなことできませんやろ?
担: 私学やしできる
もう一年留年させて、大学の法学部受けさせたい言うてた
私: とりあえず卒業出来たら、いつでもやり直せるんと違いますか?
担: そう思うけどな、寄付もあったりして教頭からきつく言われてるんや
お前の親父はわしと同じような感じやな
可愛そうやな
わしんとこは、一切話さんかったが金だけくれてた人や
来週に会議有るから、今夜でも話して決めてきてくれんか?
私: はい、今夜父と話します
心底腹が立った
悲しかった
死にたいと思った
こんなことがあるの?
そこまでするん?
本当に初めて「どついたる」としか考えが及ばない、怒りしかない。
私: 今日担任に呼ばれて、「留年させろ」ってこと聞いたで
なんでや?
父: あの口軽がペラペラしゃべりやがって
私: なんでそんな事させるんか?
頭おかしなったんか
とことん食って掛かった
父: おまえになんぼ使ってるとも思ってるんや?
留年して上の大学の法科へいくんや
わしは貧しかったから勉強できんかった
お前は恵まれてるんやぞ
私: あのな、卒業してたらいつでもやり直せるんや
するのは俺やぞ
父: あほか、上の大学以外はあかん
わからんのか?
両親と堂々巡りの言い合いの果て、とうとう切れて初めて言い返して怒鳴りまくった。 もう、相談も何もない。 子供辞めたる。 関わりたくもない。 自活できるまであと少しだけ居させてもおうと決めた。
数日して、また家を飛び出した。
お金もないため、すぐに戻った。
口も利かない、家ではご飯は食べない。
父: お前どうするんや?
私: もう俺に金は一銭も使わんでくれ
兄弟も多いんやから、そっちにもっと使ってやって
父: 明日からわしの会社で働け
私: ありがとう
と、父の会社へ行き現場の雑用係をしながら、就職先を色々探していた。 甘えもあってだらだらと過ごす日々となった。
残業の日に夜9時に、これを届けてこいと片道2時間強の道のりを車を飛ばして行った。 深夜1日過ぎに戻ると、鍵が掛かっていて呼び出しベルを鳴らしても誰もでてこないし家に入れない。 信じられんと薄情な両親に腹を立て、ご飯も食べず家の前で車を留め寝た。
夜が明け5時半、車の窓をどんどん叩き母に起こされた。
母: 恥ずかしいから、こんなとこで寝るな
私: 昨日は仕事で遠くまで生かされて、遅くなったんや
なんで鍵掛かってのや
母: そんなん知らんわ、遅く帰る奴が悪いんや
と、こう言った調子で、いつも通りのやり取り。
腹を立てていたらきりがない。
月3万円で住まわせてもらってるだけで、感謝しておこうと決めていた。
父の会社に行き初めてから、手取り11万円の中から毎月3万円を生活費として納めていた。
下着が増えていた。
私: このパンツなに?
母: 新しいの買うてきたんや
私: 頼んでもないのに、なんで買うねん
いくらや
もう一切買わんといてくれるか
母: パンツぐらいええやろ
私: もうこの先一生金の事言われたないわ
母: ほんまへんこやな
なにがあっても曲げなかった。
余程お金に行き詰まらない限り、近くの大衆食堂でご飯を済ませる。
こんな生活を1年弱続けていた。
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