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2024|作文|365日のバガテル

小説『82年生まれ、キム・ジヨン』 。

ベストセラーらしい。しかし、これまで気にもせず、読みたい本を優先してきた。本を選ぶときに帯のもんもんを見ないようにしているのもある。そんな自分に、この本を読むきっかけをくれた、装丁を手がけた榎本マリコさんにありがとうと言いたい。マリコさんとは仕事で縁があり、そこからこの本をギフトしていただいた。もともと、作者本人が言うならまだしも、社会問題とかそういうのを、先に批評家が全面にうたう本(キャンペーン的だとうがった見方をしたくなくてもなんとなく何かを感じてしまうたぐい)とかに対して、とにかく冷静にいたくて遠回しにする傾向がある。だから、この本を読まないままだったら、それは星野道夫の『旅をする木』や、カミュの『異邦人』や、ガルシア・マルケスの『100年の孤独』や、宮沢賢治の『春と修羅 告別』や遠藤周作の『沈黙』や吉田修一の『横道世之介』や東山彰良の『流』やチャールズ・ブコウスキーの『くそったれ少年時代』などと出会えてなかったら、人生が違っていたよなぁという作品と同じくらいの喪失だったと思う。

ちょうど見てた韓流ドラマとリンクしたところ。

先日見た韓国ドラマ『ライブ』、それと同時進行で読書していたこの『82年生まれ、キム・ジヨン』。たった2つ、見る作品、読む作品を1つずつ体験しただけだけど、日本以上に家長制や男女の不平等さや、社会の慢性的かつ惰性的にこびりついてしまった、人をとくに異性を傷つける言葉やステレオタイプに気づかされた。これは自国にも、世界のどこの国にも、大小様々に言えることでもある。知らず知らずに俺も傷つけ、傷つけられてもいるのだ。言葉のキャッチボールができる間柄ならまだしも、立場が違うもの同士だとなおさらその溝は大きくなる。ましてや、目上の人に対する敬語や尊重は絶対的という風潮があるところであれば、それはさらに強い。もちろんそうじゃない人やコトもあるはずだと信じているが。俺が見たドラマでは、ひたすら真面目に職務を全うしようとする人ほど貶められていく生きにくさを、この本では当たり前にがんばることや疑いようのない主体性をはぎとられていく悲しさを描いていて、そこにはイヤミも押しつけもなく、ストンと共感していけた。そのような時間と場面を生きぬいてきた人の脚本や物語だったからだろうか。それと、両作品では、ともに合宿に行くくだりがあるのだが、そういった合宿ではフットバレーというのが韓国ではポピュラーみたいだ。これは、日本だと小さい頃から誰もができる運動要素が高いレクレーションとして馴染みがあるドッジボールか、だるまさんが転んだをやるのと同じなのかなと思った。

誤字脱字への恐怖。

俺は仕事においても、とにかく固有名詞のパンチ(タイプする)の誤字が多い。とくに人名やアイテム名をカタカナ表記にするときにそれが多い。もう昔からそうだから、そこは必ず校正時につよくチェックをお願いしてる。同時に、原稿段階で自分も散々とチェックをするのだが、校正してくれる人にも(親身に)諭されてしまう。「修正するデザイナーさんも大変だから、人名は何度もチェックしてから納品してあげましょう」と。その通りだ。悔しいし不甲斐ないが、ほんとにカタカナ読みにするときが危うい。たとえば、最近の仕事では、コラムの中で、『最後の注文』の作者グレアム・スウィフトについて書くところを、グラアム・スウィフトとパンチしてしまっていた。一箇所直しても、また別のセンテンスでそうパンチしてしまう。注意深くやっている仕事でもそんなていたらく。だから、NOTEやSNSなどになると、それも企業やメディアのオフィシャル・アカウントでもなんでない、ただのこのような個人的アカウントのポストになんてたまらない。当然、校正さんを入れてないから、人名のカタカナの微妙違いは多いだろう。

『82年生まれ、キム・ジヨン』。

とにかくそんなダメなところがあり、実はこの本の名を(仕事の)文章に書いたときも間違えていた。印刷前、さらにはレイアウト前の文章チェック。そのとき、『文章ありがとうございます、1点だけ。タイトルのジョンをジヨンに修正してください、あとはまったく問題ありません』と。また人名を間違えている。それもミスというより、読みとしてジョンと確信して迷いなくパンチしてるタワケた俺がいた。指摘していただき、すぐさま直した。そして、今、この本を読み終えて、より人名をパンチミスしてはいけないと痛感している。当然のことだけれど、痛感している。読みやイントネーションの間違いと言って片づけられない。この本を読んで、ネタがフィクションかノンフィクションかはどちらでも構わないが、この物語の中で生きぬいてきたジヨンさんを、ジヨンさんだけの物語を、ジョンさんにしたらいけない。絶対にいけない。もちろん本やコラムにするとき、誤字脱字はゼロがいいし、どんなミスもイヤだしその美意識は完璧を目指すのが当たり前できたけど、ほんとに名前、映画や小説の物語を生きた人の名前や、実際に生きてるこの世の中のそれぞれの主人公である人々の名前は、間違えたくないなと、改めていつも以上に思った。まあ、プライベートだと、俺はさらにひどくて、世間的な評判は良くても、俺的にまったく同意できない人の名前は全然覚えないし間違えてしまう。まあ、欠陥がすぎると自覚はしてるが、パンチしてタイプして紙にするものは、これからも気をつけていきたい。

読了後の感想。

とにかくこの本はおもしろかった。そして個人的にはっきりと思うのは、社会や制度において、実際は公正さなんてものはない。学校の成績表の中にあった項目としての、公正なんてものは、学校から見て都合がいい生徒への評価なのかなあとまで思ってきた。では、公正さはこの世に存在しないのかというとそうでもない。俺は、人生におけるそれぞれの心と想像力は公正だと思う。いわば、公的なところにこそあると思われてきたものは、実は私的なところにこそあり、それは私的だからこそすべてと一致はしない。金の道しかない人は資本主義の価値観でしか物事を想像できないし、いろいろな可能性や本当の多様性や多面性を実感している人は、苦しみ楽しみ悲しみをあらゆる想像でイメージし、それをたしかに共有できる人にだけ本当の話をする。だから、身も蓋もないが、俺は人は全員同じに繋がったりしないと思う。そんなポーザーなことをしてるから、結局は争いばかりになる。それと、この本はぜひ、結婚する前にステディに読んでもらうといいと思った。俺の息子にはぜひそうすすめたい。人間は不合理であり理不尽に生きて生かされているから、この本を読んでなお、ステディとの中にある瑣末なギャップも熟慮した上で、結婚するなら、それぞれの覚悟と思いやる気持ちが違ってくる気がする。熟慮する心の時間をたくさんもってもらった上で結婚できたらいいね、と思う。

友だちに相談されてきたことを思い出す。

『結婚は勢いだ』と言われてた時代もあるが、俺は結婚を決めかねていると友だちに相談されたときは、決まって、こう言ってきた。『勢いとか希望的観測で貫けもしない覚悟や決心を男の勲章のように自分に言い聞かせてするものではない。悩んでも決めきれないくらい、結婚というのは約束通りいかないものだから、勢いに走るのではなく、たくさん想像して、その人と出会う前からの自分のままにおたがい一緒にいれるか。見つめ合うのではなく、なんとはなしに同じものを見ていれるかどうか。大切なのは、出会う前から自分が生きてきたこと、生きることとやりたいことを自分らしく。そしてそれはそのまま、相手もそう思ってもらえるかどうか。自分といても、出会うときに自分の琴線に触れ好きになったその人そのものので自然にいれるかどうか。俺もその人も、その人の人生の中に俺がいなかったままの姿に好感を抱き、好きになり、尊敬もしたのだから、結婚したからといって、俺のスタイルにハメこんでもおかしいし、好きになったその人のままじゃなくしてどうしたいのか、ってことになる。モノでも所有でもない。あるがままに。そのままに一緒にいて、生きている。それが楽しいか、幸せか。それが大切』。そういうものじゃないかと、俺は以前から思っていのだ。若い頃は、早く帰ってこい、男と付き合うな、勉強しろとか言ってきた両親が、30歳過ぎたあたりから、今度は早く結婚しろ、彼氏いないのか、孫の顔が見たい、見合いしろ、とかってあおってくるのはおかしい。全部、自分たちの都合でしかない。愛する人は、この本を読んでどう思うのか。久々にたくさん感想文と反応文を書きたくなる本だった。

そして、自分は何を思うか。

この本に答えがあるわけじゃない。正解もない。人々は、おたがいの立場で正論を言いあい、収拾つかないだけかもしれない。少しはがまんもしないとって思う人もいるかもしれない。日本で言う、権利主張型で、すべては権利という名の庇護のもと、他の視点で見たら不誠実なことや無責任な言い分(バックれとか1番増えてる部分だろうな)のみになり共同作業の機能不全と似てると思う人もいるかもしれない。なにより、言葉で発することが怖くなるかもしれない。ふと出た一言や感想が、誰かを傷つけるかもしれないと思えるからだ。何も発せず、黙っているのがまだマシになる現にこの本の主人公も、言おうと思ったことをほとんど飲み込んでいる。飲み込んだ心の声が文になっている。俺は、だからこそ、自分の言葉を書かなきゃいけないと思う。書いて仕事しているならば、それがしたいことならば、自分の言葉で書くことだ。全員が似たような人生のまったく違う人生を生きている。辻褄合わせのためや、納得するためにこの本は存在しているわけじゃない。読んでも、スカッとするわけじゃない。だからこそ、俺にはありがたい。ときに、このような作品は、さらに考える苦しみと喜びを与えてくれる。そして、ひとりなんだけど、ひとりじゃない。というか、みんなひとりを生きているんだと、思い出させてくれる。だからこそ、ひとりを生きながら、見つめ合うのではなくときどき同じものを見てる隣の人がいることに、とても感謝したくなる。

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