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今日が残りの人生の最初の日
インドの哲人ガンジーはこう言ったそうです。
「今日が人生最後の日と思って生きよ」と。
他方で、今日が残りの人生の最初の日だということも事実だと思います。
私達は、とかく毎日の生き方を軌道に乗せて、その後はともすると自動運転みたいな
なれあいの日々の過ごし方を送る傾向があると思います。
一体、毎日の朝を生まれてきたばかりの時のようなフレッシュな心持ちで生きられたら、
人生はさぞ光り輝く新鮮な生だろうなと思います。
私はある芸術家と何年か友人としてお付き合いしたことがあります。
今振り返ると、彼は毎日絵画や書を描いている時に、この何かが誕生するのを、
つまり創造する時やその過程に立ち会って目撃していたのだと思います。
自分がその創造に立ち会う新鮮さ。
そのためには常に眼と心を新しい状態に保つ秘訣があったのだと思います。
それは秘訣というよりは、ひとつの生き方だったのではないかと推測できます。
彼は、自分の絵画の批評にプロの作家や批評家の誰よりも、近所の素人の人の自由な感想を
聞くことが好きでした。
プロの人が抱く決まり事や蘊蓄を持たない先入観のない一般の子供や大人の意見を
大切にしていました。
プロの美術批評家というのは、作家をある約束事やテクニックやある歴史の流れのなかに位置づけようとしたりします。
それはある意味、決まった世界の中の位置づけと評価にしかすぎません。
私たちの周りには、まだ決まった世界にくくられない面が多様にあるという、いわばア一ト的余白思考を忘れないようにしたいと思います。
この世界をこうであると決めつけてくくるのは、当の私達自身の先入観や習慣、
世間の常識の力のなせるものなのだと思います。
とかく自分の人生は退屈だ、悲しい、孤独だ、不運だなどというのは、私達の頭が作り出している
仮想の物語の編集にすぎず、裸の現実は透明で繊細でありのままです。
人間せっかくこの世に与えられた人生、世界はこうであると決めつけるのは
人生の最後でよいと思います。
それより、日々、今日が残りの人生の最初の日と思って、新しい眼で自分の内面やこの世の動きを映して、毎日をトータルに感動できる人生にしたいものです。
人生でどのくらいの幸不幸や哀愁、喜怒哀楽、美醜、善悪を、この眼と心で映し出すことができるかが、その人の人生の深みを醸し出す核心的要素なのだと思います。
死ぬ時はあの世になんか何も持っていけない、この世で自分の眼と心で何を映し出し
どんな人生を内面に刻印できたかが大切なのだと思います。