人生すべてがイヤになったと思うとき
人間生きていると、あることがきっかけで人生すべてもうイヤと投げ出したい気になることが一度や二度はあるかと思います。
あれだけ誠意を尽くしてやっていたのに、あれだけ頑張っていたのに、報われず、というような気持ちを抱くことってないですか?
あれだけ、あれだけ、と気持ち的に投資していたのに、ゼロに戻っちゃったとか。。なんならマイナスに後退したとか。。
そういう時もあるかと思います。
私は、そういう時、積み上げてきたものがまるでゼロかマイナスに思えてくる時、
そういう感情や思考をわざわざ否定しないようにしています。
それよりも起こった現実の方をできるだけ客観的にモノを見るように直視します。
実害はどれくらいかと。
そして、なるようになった。縁がなかった。自分のベストを尽くしたのだから、ある意味、それ以上どうしようもなかった、と思うことが多い。
諦念といえばそうですが。
そしてまた思考的にも気持ち的にもゼロの状態に戻ったということは、また身軽にもなれた
ということで、その真空のようなゼロの状態に甘んじて、次を目指します。
そうして、またゼロにリセットされた心身に、また世界や自分の新しい流れが芽生えてくるのを待ちます。
空になった器には、また何かが満たしてくるのだと思います。
何かを諦めると、他の何かが生まれる余地ができてくる。
また人生のスタート地点に戻った、得てきたものを失ったが、そこが、もともと手ぶらで
生まれてきた地点でもあり、自分の空になった心身の足元に戻るというような感じでしょうか。
それはそれでいいようにも思えます。
人生生きていれば、積み上げてきたものを放っぽりだしてしまいたい時もあるでしょう。
または外的人的要因で積み上げてきたものが破壊される時もあるでしょう。
そういう時に、私は、またゼロに戻ったと、ある意味、身軽になった貧しさを
かみしめれるようになりたいと思っています。
ゼロになった、空になったということは、ある意味、内部に余裕を生む素地が芽生えることでもあるから。
また破壊され傷跡を残したら、それは人生の経験としての何らかの価値があるととらえるようにできればと考えます。
畢竟、もし「人生は無意味」=<生きることは空しい>という図式が成り立ったとしても、
自分だったら、その「空しさ」なりの人生にも、それをかみしめながら生きる価値があると思うのです。