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生(性)の絶頂で死、失楽園を再読
先日、渡辺惇一氏の「失楽園」を再読した。
読んで改めて思ったことは、主人公久木と凛子の性愛の激しさゆえに、恋に
落ちて、お互いの生命を削るように性愛にのめり込み、
そして、その絶頂で自死を迎える心理に、
ある種うらやましさも感じたが、どうして性(生)の絶頂で死を迎え生を終わらせたいと
思うのか疑問が残った。主人公達は不倫ゆえ、社会における仕事や家庭、安定や世間体をかなぐり捨て去って孤立化を深めながら、愛の極北の地、すなわち死を夢見るようになっていく。それもただの自死ではなく、心身ともに合体したまま死に赴く。。。
たぶん、普通の男女の交際では恋の芽生えから恋愛曲線は安定を迎え、
そして結婚などの社会的な制度でその関係を固定化し、
そのあとは怠惰やマンネリで情愛に変質していき、
たまに相手を最初の頃のようには愛していない恋愛の鈍麻という通常のみちのりを、
久木と凛子は拒否したかったのだろう。
刹那の恋が燃え上がった、その最高点で死を迎え永続化したいと希求する。
それもアリかとは思う。
たぶん、そういう過激な心情ゆえに、この小説は大ベストセラーとして人々の記憶に君臨できたのではないかと思う。
だが、私とすれば、久木と凛子のその後、性愛が情愛という安定に変化していき、
老後に向けて添い遂げていく平凡な愛のカタチも見たかったという気持ちが残る。
男女の愛は、かならず変化することから逃れられない。それを拒否したのが名作「失楽園」たる由縁だろう。これはこれで愛の極地を描いた不滅の名作だと思う。
だが、私は、男女の愛が揺らめきつつも変化を受け入れて、だんだんと情愛の深さに進展していく過程も、人間にとって生きて愛する試練、生きる意味の探求なのだと強く思うのだ。