高樹のぶ子作「透光の樹」を再読
今回は日本を代表する私が好きな女流作家・高樹のぶ子作の谷崎潤一郎受賞作「透光の樹」を再読。
人は誰かを好きになると、ひとりになった時に相手のことを想ったり、読書とかに心の憩い・潤いを求めるものかもしれない。
主人公は、日本海に面した能登半島に刀鍛冶の娘で一児の母として貧しく暮らす千桐と、
かつて彼女の父・刀鍛冶の暮らしぶりをドキュメンタリーで制作したことのある
今井郷との20数年ぶりの再会と恋の物語。
今井は20数年前千桐の父親の刀鍛冶のドキュメンタリー番組を制作し、
ふとしたことから彼の家があった土地の近くにふと旅をする。
そこで当時高校生で可愛らしかった千桐と偶然再会し、今井は一気に恋に落ちる。
千桐はすでに離婚していて一児の母として貧しく暮らし、借金の返済や父の病院費用などでお金に困っている。
そこで今井はその借金を負担しようと申し出、少しまとまったお金を支援することになる。
こうして、お金がまず今井と千桐の恋愛関係を覆い隠す。
お互い惹かれ合っているのにお金の貸し借りが介入したせいで、
千桐は自分の恋愛感情を素直に認めがたくなり、今井の方も困っている人がたまたま恋する相手・千桐だったのでお金を貸したのだが、千桐にとってそれが心理的負担となり重荷に感じる。
千桐はお金で自分はいわば買われたと勘違いし、私はあなたの娼婦になります、
と不器用に言い出すが、今井が自分を本当に愛していることに徐々に気付いていく。
こうして能登半島の季節ごとの風物を織り交ぜて恋の交歓が少しずつ進んでいていく。
性愛の描写は、さすが高樹のぶ子のペンにより、抑えた女の情念が、少しずつ水がにじむように染みわたりじつに美しい。
中年に差し掛かった二人の恋愛の燃え上がり方は、
まるで相手の体は自分の体の一部とまで感じられるような一体感・融合感をたたえている。
この恋のような遠距離な場合は、その恋する相手の肉体が遠く離れている時に、
自分の体の一部である相手の存在がここにないという欠落感として感じられる。
その相手と自分の心と体の欠落感を満たそうとして逢っているときの恋は燃え上がる。
ただ今井の体は少しずつガンに侵されていく。
それを知って、「郷さん、死ぬの?」
とふと逢瀬のときつぶやく千桐の言葉が、運命に見放されたようで切ない。
もうガンの末期でこれが東京から千桐のもとに行くのも最後となったとき、
郷は自分の死後も生きていくであろう自分の分身の千桐の心と体を思って最後の誠意と精力を注ぐ。
そして、彼は入院し、亡くなる直前にふと千桐のもとをひとり訪ねるがあえて逢わず、
彼らが再会しともに愛を語り合ったある田んぼの樹に彼のイニシャルGと彼女のイニシャルCを樹の表面に彫り込んで、この世の思い出の刻印を印して死に赴く。
自分の死後にもこの樹に来ればお互いが再会できる、生前になせるささやかな天からの計らいのつもりだった。
郷の電話番号は使われなくなり音信不通、亡くなって数カ月のちに千桐は郷が死んだことを知る。
郷は自分が死んだ知らせを、かつて彼女の父親が郷にプレゼントした刀を彼女に返送することで知らせた。
千桐は、すぐにあの二人の秘密の樹のもとを訪ねて、GとCの刻印を見つけ出し、追憶の日々をその樹のもとでときどき思い返す。
千桐は、だんだんと郷との過去の追憶の日々の方が現実となっていき、やがて若年性アルツハイマー病に侵されていく。
ある日娘が、千桐が庭で独り言を言って体を左右に軽く揺すっている背後に立ち、
その声を聴いた。
「あなたのこの右耳は、ぼくの耳。。。右の乳房はぼくの右胸。。。」と言って、
郷の言葉で、自分を愛撫していたのである。
娘は、母親の気が狂っているのではなく、何か名状しがたく自分のうかがい知ることのできないような母の過去の愛の足跡と、情愛の深淵を覗き見たようで、母はその深く豊かに織りなす秘密の世界に生きていることを悟るのだった。