坂道
どうも、道路標識です。法定速度時速50kmを示す、丸い顔した標識です。5年前から緩やかな坂道の真ん中に位置しています。緩やかとは言いえど、坂道で法定速度時速50kmはいいのか法律に疎い私には分かりませんが、事故のない平和な道です。今日は煮えたぎるような暑さで気が滅入りそうです。地が泣いているような陽炎が眼下に揺らいでいます。いまは、午前10時を回った所でしょうか、車が時折私の前を横切っていきます。おっと!今日最初の歩行者です。高校生になりたてのカップルでしょうか、顔に少し幼さを残した2人ですね。この頃の彼らしか持ちえない、尊きあどけなさをまとっています。初々しい甘さにこちらが何か小恥ずかしくさせられるのです。こんな暑さの中でも笑顔は切らさず、胸いっぱいに青春を抱えています。反対車線側の歩道を歩いているため会話は聞き取れませんがその笑顔はとても楽しそうです。共にいる時間を増やすためでしょうか、歩みは遅く歩幅をあからさまに小さくしています。1歩1歩をゆっくりと踏みしめている彼らに流れる時間の甘さといえば胃もたれしそうな程です。こちらまで笑顔にさせられます。私に表情無いですけど。少しして、彼らが通り過ぎるとまた蝉の声だけの時が流れます。この詩的な時間も嫌いではないですが、人の往来ほどワクワクし、発見をくれるものはありません。私の生きがいです。このまま誰も通らず日が暮れることもしばしば。しかし、今日は運がいいようです。二輪車をこの緩やかな坂に小さな体でめいっぱいにこぎ続ける少年がやって来ました。兄のものでしょうか、年季の入った黒い自転車で、チェーンを軋ませながら徐々に近づいてきます。傾斜が緩やかとはいえこの日差しの中、小さな少年が登るにはいささか厳しいようです。時速50キロで登ってくる車を度々横目に入れながらその小さな足を止めず少しずつ少しずつ標高を増していきます。このもどかしさときたら、手が生えてきそうです。今すぐ抱き抱えて坂の上まで運んであげたい。彼の頑張りをめいっぱい褒めてやりたい。そう思いました。標識にはとうてい無理な願いですが。5分程そんな空想にふけっていると、ついに彼は私を通り過ぎます。先程まで近づいてきていた、その少年の早い呼吸音が少しずつ遠ざかっていくのです。頑張れ。頑張れ。応援せずにはいられません。彼には伝わりませんが、それでも私は続けます。頑張れ。頑張れ。彼の額に光るその汗は彼の努力の結晶に他なりません。疲れているはずの彼は決して動くことをやめません。彼は力をふりしぼり続けます。登り始めてから20分ほど続いたでしょうか、ついに彼は報われました。坂の頂上へとたどり着いたのです。渾身のガッツポーズ。そして彼は達成感に満たされ、笑いました。その笑顔は、エベレスト登頂にも比肩する満面の笑みでした。私も嬉しかった。義務教育を受ける年齢にすら達していないその幼児が今、エベレスト登頂をなしとげたのだ!感動。その一言に尽きます。心が震えました。僕が昔のように、人であったなら涙を流して喜んだでしょう。
彼は1度乗り物から降り、大きく深呼吸をします。笑顔は変わりませんでした。その後、彼は5分程かけて呼吸を整え、また走り出します。もう私には見えませんが、エベレスト登頂をなしとげた彼に怖いものはありません。きっと元気いっぱいに、こぎ出していることでしょう。
また、虫の音しか聞こえない時間が訪れます。太陽はちょうど真上、正午になった頃でしょう。日は一層その強さを増し、地上を激しく熱します。空で煌々と輝き、影に深みを与えます。まだ一日は長い。優しい風が陽の光を受けた深緑を包み込んでゆく。私は今日もここで、全てを眺めます。
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