たまごサンド
また失敗してしまった。まだ柔らかい。半熟にしたいときはカチカチのゆで卵ができるのに、今日に限って見事な半熟。これじゃあたまごサンドを作るのは難しい。こんな些細な失敗は私に、人生はどうもうまくいかないと思わせる。これは卵に限った話じゃないし、卵なんてかわいいもんだ。だけど、やっぱり失敗は苦しいから、なかったことにしたくて、ドロドロの卵でたまごサンドを作ることを決めた。
最初の1つ目と同じように、憎らしいほど半熟のゆで卵をむいていく。失敗はわかり切っているのに、一つ、また一つとむく度に、白身がぷるっとやわらかく、黄身はしっとりしたたまごサンドに最適なものが顔を出さないかと期待してしまう。これは私の悪癖の一つで、失敗を失敗と認めないまま状態を悪化させるのが常だった。親にも先生にも上司にも言われたけれど、治すことができなかった。もしかしたら成功するかもしれないチャンスが眼の前にあるのに、その可能性をみすみす手放すような真似がどうしてできようか?きっと周りからしてみれば、私の悪癖はパチンコでボロ負けして引くに引けなくなりもう一万円つぎ込んでしまうようなものだったのだろう。私だってわかっている。だからギャンブルはしない。けれど、そんな機会はギャンブルなんかしなくても日常に転がっている。重ねた小さな失敗と悪化した現実を私は受け止めなくてはならないのだ。自分の悪癖と向き合うたび、私は高3の頃を思い出す。
事前準備は万全だと自負していた。誰がどこから見ても同じことを行ったに違いない。模試も合格圏を優に超えていたし、青春も控えて重箱の隅まで対策した。人生であの頃ほど勉強したときも自分の可能性を信じていた時もない。母が買ってきてくれたお守りも握りしめて、神頼みでさえ抜かりはなかった。多分私の能力で達しうる限界まで受験当日は磨き上がっていた。でも、甲子園と同じように受験会場にも魔物がいた。問題文の一行目が上手く理解できない。そんなこと大したことでもないのに、体の芯が冷える心地がして汗が吹き出す。また一行目を読むが、さっきにも増して文字が滑って頭に入ってこない。その問題を捨てて落ち着いて次の問題にいけばいいのに私の悪癖はそれを許さなかった。いい点を取るためにはこの問題は捨てられない、そう考えてその一文にどこまでも固執し、時間を浪費し続けた。結局ただマークシートの前で静かに座っていることしかできなかった。
その後の教科も私は自分を取り戻すことができずに、どこまでも氷の上を滑ったままゴールから遠ざかっていくような心地で問題文を眺めていた。物理の先生の等速直線運動の説明が脳内を埋め尽くした。
「もし全く抵抗のない広大な氷の上で一度滑り出せば、止まることどころか減速すらできずに、どこまでもどこまでも滑っていくことになる」
受験勉強をしていた頃の私は、スケート選手がきれいに氷上を滑っていくイメージを抱いていただけに、今ではフィギュアスケートすら軽いトラウマになった。言うまでもなく結果は悲惨なもので、第一志望はおろか候補の大学は一つも受かりそうになかった。にも関わらず、二次試験の比重が重い大学だったという理由で、私の悪癖はその後も顔を出し、起死回生を狙って第一志望の大学を無謀にも受験し、無惨に散ったのであった。
と、物思いにふけっているうちになんとかパンに挟めるくらいの卵が出来た。普通ならおよそサンドイッチなんかにするはずもないほどドロドロではあったが、ギュッとパンで挟めばなんとか食べることはできそうだ。受験に失敗しても人生が終わるわけではなかった。きれいな焼け目の付いた食パンにドロッとした卵を乗せる。パンはうまいこと焼けた。毎日失敗を重ねてはいるが、人生は昨日も今日も多分明日も続いていく。こぼれた卵を指ですくって口に入れる。少しマヨネーズが足りなかったかもしれない。これは失敗だった。まあでも食えないことはないので、コーヒーをいれつつテーブルへ運ぶ。失敗も時間が経てば成功と等しく人生の色になっていく。要するに捉え方次第で失敗は経験や個性へと形を変える。それは過去に対する過剰な美化なのかもしれないけれど、そうしなくては少なくとも私は生きていけないし、それで前を向けるなら悪くないんじゃないかと不格好なたまごサンドを見ながら思った。コーヒーをすすってから、卵がこぼれないようにかぶりつく。パンの焼き加減は完璧だし、不味くはない。もちろん理想の人生ではないけれど、悪くないたまごサンドだ。これはこれでいい人生だ。たしかにこれはたまごサンドだし、私らしいたまごサンドだ。コーヒーをすすりながら椅子に深く座り直し、窓の外を眺める。色づき始めた街路樹の輪郭がはっきりと浮き出るきれいな青空が広がっていた。コーヒーの苦味と酸味を味わいながら再び、失敗の人生にかぶりつく。出来損ないのたまごサンドを生きていく。