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戦国蝦夷国人名辞典
【あ】
相原政胤【あいはらまさたね(14??~1457)】
下国定季家臣。官途は周防守。通称彦三郎。1454年、南部光政に幽閉されていた安東政季を救い出して蝦夷国に落延びた。下国定季に仕えた。1457年、「コシャマインの蜂起」でコシャマイン勢と戦い討死した。参考文献:「知識の網」by呉王夫差。
相原季胤【あいはらすえたね(14??~1513)】
相原政胤の男。通称彦三郎。1457年、「コシャマインの蜂起」で父の相原政胤がコシャマイン勢と戦い討死したため、相原家の家督を相続した。1496年、「大館の戦い」で下国恒季が安東忠季勢と戦い討死したため、大館主を務めた。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」でショヤタイン、コウジ勢と戦い敗退した。二人の娘は大沼まで落延び自害した。。参考文献:「知識の網」by呉王夫差。
相原吉胤【あいはらよしたね(15??~1513)】
相原政胤の次男。下国定季の家老職を務めた。1513年、「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」で兄の相原季胤とともにショヤタイン、コウジ勢と戦い討死した。参考文献:「知識の網」by呉王夫差。
青山宗右衛門【あおやまそうえもん(15??~15??)】
下国由季家臣。室は下国由季の娘。参考文献:「知識の網」by呉王夫差。
明石季衡【あかしすえひら(15??~15??)】
蠣崎義広家臣。通称右馬介。室は蠣崎義広の娘。蠣崎季広の次男(蠣崎元広)を婿養子に迎えた。明石元広が実姉(南条広継の室)に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
明石元広【あかしもとひろ(1540~1562)】
蠣崎季広の次男(明石季衡の養子)。通称万五郎。室は明石季衡の娘。1562年、南条広継の内室(実姉)に家督を継げないことを逆恨みされ、毒を盛られ謀殺された。娘は岡部季村の内室を務め、岡部広衡と岡部元村をもうけた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
明石広衡【あかしひろひら(15??~15??)】
岡部季村の男(明石元広の養子)。1562年、明石元広が病没したため、断絶した明石家の名跡を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
厚谷重政【あつやしげまさ(14??~1495)】
檜山郡比石館主。官途は右近将監。1457年、「比石館の戦い」でコシャマイン勢と戦い茂別館に落延びた。参考文献:「知識の網」by呉王夫差。
厚谷重時【あつやしげとき(14??~1521)】
厚谷重政の男。官途は備中守。1459年、父の厚谷重政が病没したため、厚谷家の家督を相続した。1469年、蠣崎信広に仕え勝山館に転封した。1496年、「大館の戦い」で蠣崎光広に従い下国恒季勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「知識の網」by呉王夫差。
厚谷重形【あつやしげかた(14??~15??)】
厚谷重時の男。官途は備中守。通称十郎。1521年、父の厚谷重時が病没したため、厚谷家の家督を相続した。1532年、「徳山館の戦い」で蠣崎義広に従いアイヌ衆を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「知識の網」by呉王夫差。
厚谷季政【あつやすえまさ(15??~1590)】
厚谷重形の男。官途は備中守。通称四郎兵衛。別名厚谷重政。室は蠣崎義広の娘。1546年、「陸奥森山館の戦い」で蠣崎季広とともに安東尋季に従い森山季定勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
厚谷季貞【あつやすえさだ(15??~1570)】
厚谷重政の男。官途は備中守。通称文太郎。室は蠣崎季広の娘。蠣崎慶広から家老職に任じられた。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
厚谷貞政【あつやさだまさ(15??~1637)】
厚谷季貞の男。官途は備中守。通称四郎兵衛。1570年、父の厚谷季貞が病没したため、厚谷家の家督を相続した。1637年、福山館の火災で火薬庫が爆発したため、火傷を負いまもなく病没した。参考文献:「知識の網」by呉王夫差。
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