
関ヶ原の戦い vol.2
今こそ集え、正義の名の下に
ではでは、『関ヶ原の戦い』パート3です。
ではでは、おさらいです。
秀吉が死んで、豊臣家がすっごいモメてるの。
↓
前田利家さんが死んで、七将襲撃事件が起こるの。
↓
家康がケンカを止めて三成が隠居するの。
↓
ほぼ家康の天下なの。前田家も従わせてマジでほぼ天下なの。イェイ。
なのですが……
家康に届いた一通のお手紙がキッカケで、あれがこーなって、これがあーなって、なんかもうピタゴラスイッチみたいに『関ヶ原の戦い』になだれこんでいきます。
では、そのピタゴラルートの説明にまいりましょう。
あるとき、家康はふと気づきます。
家康「あれ? 会津(福島県あたり)の上杉景勝さんて、年始のごあいさつ来たっけ来てないよね?」
と(上杉景勝さんは五大老の1人ね)。
そんなこと言ってたら……
「上杉が、越後(新潟県)との国境に道や橋を作ってます!」「景勝のヤロー、武器集めてるらしいです!」「道や橋作って武器まで集めてるって、戦争の準備ですよこれ!」
まとめると、
「上杉のやつ、謀反を起こす気です!」
という報告が届くんですね。
このニュースを聞いた家康は、
家康「ちょっとちょっと上杉さん! こっちは半分笑ってるよ! で、あと半分で怒ってるよ!」
と、上杉家にこれでもかってくらい疑いの目をむけるんです。
でも、心の中では…
「フフ…これで、上杉も前田家のように従わせることができる…」
と、思ってた可能性がすんごく高い。
いずれにしろ「どーすんだよ!」とあわてるのは家康のまわりにいる人たち。
「おい! 上杉に『今お前らヤバいよ!』ってことを伝えないと、事件になるぞ!」
とドッタバタです。
そこで、豊臣家に仕えてた西笑承兌(さいしょうじょうたい)ってお坊さんが、彼と親しかった
直江兼続(「愛」の兜でおなじみ)
という、上杉家のNo.2にお手紙を出すんですね。
「上杉(景勝)さんが全然上洛しないから家康さんが怪しんでます! 道や橋作ってんのも武器集めてんのも…! とにかく、謀反のウワサが広まってますから、こっちに来て説明して、謝った方がいいです! そしたらきっと許してくれますから!」
すると、直江兼続からお返事が……返ってきたはきたんですが……
家康「上杉さん、こっち来るって言ってる?」
西笑「いや、その…なんて言うか……(手紙渡す)」
家康「え、長」
文字量ギッシリ。
届いたのはとにかく長ぁーい手紙。
そこにはズワーーっと、いろんなことがつづられていたんですが、ムギュっと短く訳せばこうなります。
「は? by 直江兼続」
さすがにはしょりすぎたので、もう少しだけ長めに。要点をまとめると、こんなことが書かれていました。
「手紙見ました。
家康様が怪しむのもしょうがないっすね。遠くにいる景勝についてはあらゆるウワサが飛び交うでしょうから。ま、こっちは別に問題にしてませんけど笑
てか、上洛しろしろ言うけど、一昨年に上洛して、やっと去年の9月に帰ってこれたーと思ったらまた正月に来いって……いつ国の仕事すりゃいいんでしょう? それにこっちは雪国だから10月〜3月まで何もできねーんすよ。
あ、うちの景勝は謀反なんて1ミリも考えてねーから。
デタラメな報告するやつをよく調べもせずに『謀反する気だ!』なんて思われちゃどうしようもねーよな。人をおとしいれようとするやつがいたら調べるのが当然だ。それをしないってことは、家康様こそウラオモテがあると思いますけど?
んで、武器に関してね。都会の武士は茶器なんかを集めるんでしょうが、田舎の武士は鉄砲や弓を集めるもんなんすよ。それぞれの国の習慣と思えば不審がるとこじゃねーだろ? ちっちぇーわー。
あと、道や橋ね。……いやそりゃ作るでしょ!? みんなの交通の便をよくするために! あらゆる国境に道作ってるけど、怖がって騒いでるのは、そちらに報告したバカだけだけどな。
とにかく、謀反する気なんてねーし、『それなら上洛してこい』っていうのは、マジで言ってることが赤ちゃん。
秀頼様をほっといて、こっちから戦いをしかけて天下を取っても、悪く言われんのはこっちだ。なので、そんなことはしねーから安心して(勝てるけどね^ ^)
でも、世間は"白黒"を知っています。真実をわかってください。
意見を言って了解してもらうため、遠慮せず書いてみました。 直江兼続」
家康「グぞガラびガァ!!! ホゲド、ホゲドまがまがぁぁぁーー!!!!!!」
え、なんて言った? ってくらいキレます。
なんと直江さん、ほぼ天下人の家康に真っ向から反発。
かなりケンカ腰&敬語ムシで訳しましたが、自分たちの行動の意味と相手のおかしな部分を
「直江状」
と呼ばれるお手紙で、全部説明してみせたんです。
こんな長文メール(ホントはもっともっと長い)が届いたらどうします?
どちらにしろ震えますよね。送信側なら頼もしくて。受信側ならキレすぎて。
ただこの「直江状」。原本が残ってないので、後世に作られたニセモノだ! いやニセモノではないけど修正はされたものだ! いやホントにあった手紙だ! という論争がずっと続いてるんですね。
しかし、お手紙がどんなものだったのかはさておき、家康が怒ったってのはどうやらホント。
「直江状」をキッカケに家康は、
家康「上杉は完っ全に謀反を起こす気だ! 秀頼様になりかわり叩きつぶす!!」
と、豊臣家のオフィシャルな戦いとして、
「会津征伐」
と呼ばれる遠征を決定しちゃうのでした。
はい、というわけで大移動です。
家康も、息子の
徳川秀忠(のちの江戸幕府第2代将軍)
も、会津を目指します。
徳川のことがキラいだろうが好きだろうが、これは豊臣のオフィシャルな戦い。だから、命令に従ったたくさんの大名も、みんなみんないっせいに会津に向かいます。
あらゆる大名が日本の東に集まります。京・大坂がポッカリ空きます。京・大坂に人……あれ? 京・大坂から大名が消えたなら……
三成「今だ!!! 家康に戦いを挑むタイミングは今しかない!!!」
そう、再び立ち上がるんですね、三成が。
とうとう家康を倒すため、挙兵(兵を集めて戦ってやる!)を決めるんですよ。
そうとなれば必要なのが仲間。三成は、すぐさま親友の
大谷吉継(で、検索すると、"白頭巾姿"がいっぱい出てくると思いますが、大谷さんは病気で顔がただれていたから、それを覆ったビジュアル)
に協力を求め、
三成「共に戦っ…」
大谷吉継「やだ」
すぐ、さま、断られます。
三成「頼む!! 一緒に戦ってくれ!!」
吉継「だから無理だって! あのときとは状況が違う! いいか、お前のその行動で、世の中が大きく乱れちまうんだぞ! それにな、ぜっっっったいに勝てない! 家康は兵多い戦上手い家臣優秀みんなからの人望あるお前人望ない!」
三成「スムーズにディスるな!」
吉継「冷静に考えろ。家康の255万石に対して、お前は19万石。レベルが違いすぎる。それに、家康は兵多い戦上手い家臣優秀みんなからの人望あるお前人望ない!」
三成「それやめろ! わかってるよそんなことはわかってんだよ! それでも! それでもな!! 家康を倒さないことには豊臣家に未来はねぇーだろ!!」
吉継「……………とにかく、オレは反対だ」
考えを一切曲げない三成と、それに大反対する吉継。そこから約10日後……
大谷「考えは変わったか」
三成「いいや」
吉継「……………五大老の毛利さんと宇喜多さんを味方につけるのは絶対条件だ。それと、総大将は人望のないお前じゃなく、毛利輝元さんにやってもらうこと。そうすれば、他の大名がこちらに味方してくれる確率は上がる」
三成「………大…谷…?」
吉継「やるからには……勝たないとな」
三成「……………ありがとう……」
心の友よ。
ジャイア…三成の決意が固いことを知った吉継は、悩みに悩んだすえ、親友の無謀なチャレンジに協力することを決めたのでした。
(三成が1人で家康を倒すと決め、吉継に相談した……とは書きましたが、最近では、三成、吉継、毛利輝元、宇喜多秀家、というメンバーで相談して、家康と戦うことを計画したんじゃないかと言われてます。三成1人の思いつきじゃないってことですね)
さぁ、タッグを組んだ三成と吉継。ここから2人がやるべきことは、
「古の魔法を蘇らせ、家康を一瞬で消し去る」とかではなく「三奉行を仲間にする」
です。
ハッキリ言って、三成がやろうとしてるのはぶっちぎりの謀反。ただ、"豊臣本社の社員"が味方になれば話は別です。
豊臣社員=三奉行が仲間になれば「豊臣政権の中心にいる人間も認めてるよ!」と、この謀反が一気に"正しい(正当な)行動"に変わるんですね。
しかし、いまは完全に家康にゴロニャーゴな三奉行。三成の怪しい動きを知ると、
三奉行「『家康さん(or輝元さん)、三成と吉継が謀反起こしそうです! すぐ大坂にきてください!』」
バッチリ報告。
ゴロニャーゴたちは、家康と毛利輝元にそれぞれ手紙を出して、三成の動きを止めてもらおうとするんです。
三奉行「カンベンしてくれよ! 謀反とかヤベーだろ! 三成はいったい何を考え…」
三成「みなさん! 話を聞い…」
三奉行「ぎゃあぁぁーーー!!! ま、待て!! は、話せばわかる!!」
三成「……うん、ホントにそうです! 奇跡的に意見が一致してます! お願いです…(こんこんと説得。すっごく説得)」
三奉行「……わかりました。ゴロニャーゴの方向を切り替えます」
よかった。トリオ・ゴロニャーゴが仲間になりました。
同じころ、広島から輝元が到着。三成にどんどん心強い仲間が増えていきます。
(さっき言ったとおり、輝元は、三成→安国寺恵瓊→輝元というラインですでに計画を知っていた、もしくは最初から計画に参加していたので、三成の味方をするために大坂にきたんです。
あと、三奉行は最初から三成の計画に参加してたけど、家康に計画をチクッておけば、三成が負けた場合は家康側につけると考えた。なんて言われてたけど、これは可能性低いよ。お届けした通り、最初は何も知らなくて、計画に参加したのは途中からだよ)
さて、大坂についた輝元。彼が最初にやったのは、大坂城から家康派を追い出すこと。
そして、
毛利輝元「秀頼様! 今日からわたしがそばにいますからね!」
豊臣秀頼「ぷー」
そのまま城に入り、秀頼くんをゲットするんです。
これで三成たちは、晴れて秀頼くんの公式サポーターに就任。"豊臣家のオフィシャルな立場を手に入れる"という、最大のミッションをクリアするんですね。
さらにです。
もっともっと多くの仲間を募るため、三奉行、輝元、宇喜多秀家の名前で、
「内府ちかひの条々」
という弾劾状を作ります(弾劾状=「違法だ!」「ルール違反だ!」ってことを書いて、責任を追求する書状だね)。
「内府」ってのは内大臣のことで、家康の"公務員ネーム"みたいなもん。「ちかひ」は「違うぞ!」ってことなんで、「内府ちかひの条々」は、
「おい家康、お前間違ってんぞ!」
という内容を、箇条書きで書いたものです。
三成たちは、家康がやった「それ違うだろ!」のラインナップ……三成を追っ払ったこと! 前田家をイジメたこと! 上杉悪くないのに討とうとしてること! ルールを破って婚姻をやったこと! …
などなどを、13条にわたって書き連ね、
「秀吉様に誓ったことを少しも守らねーのに何が政治だ!! オレたちは家康を倒す!! みんなも秀頼様のため、一緒に戦おう!!」
って言葉を添えたこの手紙を、全国の大名に配ったんですね。
「秀吉様の恩を忘れてねーなら、今こそ秀頼様に忠節を誓え!!」なんて文章、武士にささらないわけがありません。
全国から豊臣恩顧の大名が、続々と大坂に集結します。
秀吉の恩に報いるため。秀頼に忠誠を誓うため。そして、
徳川家康を倒すため。
挙兵の準備が整った三成たちは、
宇喜多秀家「かかれぇーーーー!!!!」
ついに、家康の関西の拠点・伏見城を攻撃。『関ヶ原の戦い』はプロローグを迎えたのでした。
三成たちが豊臣のオフィシャルを獲得したことにより、会津征伐は「家康が始めた、マジで勝手な戦い(私戦)」となります。
立場が逆転してしまった家康と三成。
危険信号が点滅してる家康ですが、まもなく点滅は止まります。で、点灯しっぱなしの状態に……。
冗談抜きに家康、『関ヶ原の戦い』で負けるかもしれません。
出かけてもピンチ、出かけなくてもピンチ、これなーんだ?
おさらいですよ、関ヶ原パート3までの。
今回はパート4ね。
豊臣家の中で、家康無敵モード。
↓
上杉さんに「謀反する気?」と聞いたら『直江状』返ってきてバチギレ。
↓
「上杉と戦うぞ!」ってなったら三成が「家康と戦うぞ!」ってなる。
↓
三奉行や輝元も三成について「内府ちかひの条々」を配布。
↓
一方、家康のとこにも……
家康「三成と大谷吉継が挙兵したってか!」
三成挙兵の知らせが入ってきます(「内府ちかひの条々」のことはまだ知りません)。
すると家康は、
「会津に向かってるみなさーん! いったん小山に集合してくださーい!」
と、大名たちを小山(栃木県小山市)に集め、会議を開くんですね。
家康「お集まりいただきあざす。三成が挙兵しました。みなさん、大坂にいる妻子が心配だと思いますが、家康と三成……」
大名たち「……」
家康「どっちにつきますか!!(元気ですか!!)」
福島正則「家康さん!」
家康「ありがとう!!(ありがとう!)」
大名たち「オレたちも家康さん!」
山内一豊「ここから東へ向かうときは、オレの掛川城を自由に使ってください!」
家康「ジャシ!!」
ジャシ、ということで、その場にいた豊臣系武将は、ほぼ全員家康の味方をしてくれることになります。
これが、関ヶ原関連のドラマや映画では必ず描かれる、
小山評定
と呼ばれる名場面。を、ペペペと雑に書いたものです。
ただね……こちら有力な史料がないので、会議があったかどうかさえよくわかってません。
有名なやり取りはフィクションの可能性が高く、「こんな会議自体ない!」って説と「たしかに中身はナゾだね! でも会議はあったはず!」って説がいまだにバトってます。
しかし、ま、細かい話は抜き。ここでお伝えしたいのは、近くにいた豊臣系武将のみなさんが家康の味方になったってこと。
これでやっと、
徳川家康(総大将)率いる「東軍」
毛利輝元(総大将)率いる「西軍」
というチームが完成したんですね。
いよいよ両軍の中心人物、
東軍・徳川家康 VS 西軍・石田三成
の火花を散らす対戦も、間近に迫ってきております。
さ、というわけで三成を倒すと決めた東軍はクルッと反転、いざゴーウエストです。
家康は、息子の秀忠に指示を出します。
家康「秀忠! パパは東海道を通って西に向かうよ! お前は中山道を通って、信州あたりの西軍をとっちめてこい! そのあと合流だ!」
秀忠「しゃす!」
徳川軍は、秀忠の部隊3万8000と、家康の本隊3万にわかれ、それぞれ別のルートで西を目指すんですね。
ではここで、ワンポイント秀忠です。
見てもらった通り、秀忠隊の方が兵の数は多いですよね。ただ、上回ってるのは数だけじゃないんですよ。徳川家のすごめな家臣たちは、みんな秀忠隊の方にいるんです。
数も質も秀忠隊の方が上。このチョコレートパフェ、デカいしうまいし、あの店のよりいいねというのが秀忠隊。徳川の"主力部隊"は秀忠の方だった、というのを覚えといてください。
一方、本隊を率いた家康は、さっそく東海道を……進みません。
ホームの江戸城に入って、そこからまっ…… たく動かないんです。
いや、「動かなかった」というより、「動けなかった」の方があたってるでしょう。
主な理由は3つです。
1、上杉&常陸国(茨城県)の佐竹が攻めてきたらヤバい。
家康が江戸から出ていっちゃえば、上杉と上杉に味方しているであろう佐竹(大名)が、関東に押し寄せてくるかもしれない。
だからカンタンには動けないし、お城を修築したりして、上杉たちの攻撃に備えていたんです。
2、お手紙を書いていた。
家康は、東軍の武将に向けて、
「今回の戦い勝ったら領地あげるからがんばって!」「西軍の〇〇がこっちに寝返るよううまいことやって!」
などなど、領地を増やす約束や、さらなる味方を増やすための指示を書きまくってたんです。
関ヶ原の戦い前後の7、8、9月で出した手紙の合計は、なんと170通以上。腱鞘炎確定です(右筆(書記)が書いたかもですが…)。
3、東軍の豊臣系武将が信用できない。
一番の理由はこれかも。
豊臣系武将が西に向かったあと、家康はある手紙の存在に驚愕します。
それが、
「内府ちかひの条々」です。
「サイッッアクだ!!! 完全に豊臣オフィシャルがはがれた!! それどころか豊臣家に反逆した極悪人にされてる! しかも秀頼様が西軍の手に渡ったとなれば、福島たち豊臣系大名がいつ寝返ってもおかしくない! 最悪だ!!!」
豊臣系武将は、家康が秀頼くんの名の下に動いていたから味方になってくれたんです。もはや彼らが仲間でいてくれる保証はどこにもありません。
アイツらと行動をともにするの危険すぎる。これでは江戸を離れることなんてできない……。
2のお手紙作戦で、領地upをチラつかせたのには「頼む! このまま味方でいてくれよ!」という意味もこめられてたんですね。
以上の理由から江戸城にひきこもった家康。
東に上杉&佐竹、西に三成&毛利、さらには東軍メンバーに裏切られる危険……。世間ではこのような状況のことを、
"絶対絶命の大ピンチ"と言います。
しかし、先にお出かけした東軍メンバーは、家康のそんな事情をまったく知りません。
彼らからすれば、
「家康さんは何で動かねーんだ……!?」
という疑問でいっぱいなんです。
それはやがて疑惑へと移り変わり、家康への不満として表に出てくるんですね。
福島正則「オレの城(清洲城)にみんな集合して何日が経つ!? 家康さんはオレたちを捨て石にしようとしてんじゃねーのか!!」
福島正則が吠えれば、家康の次女を奥さんに持つ池田輝政が、
池田輝政「おい!! 失礼なこと言うな!! 義理パパには考えがあるんだよ!」
家康の肩を持ち、「あ?」「お?」と真っ向からのニラみあい。
井伊直政「まぁまぁまぁ、お2人とも!」
本多忠勝「お2人とも、まぁまぁまぁ!」
家康の家臣、井伊直政と本多忠勝がなんとか止めに入ったものの、険悪な空気に包まれた東軍メンバーは崩壊寸前です(井伊さん本多さんは徳川四天王ってやつのうちの2人)。
出発したらピンチ。出発をしなくてもピンチ。これなーんだ? という、なぞなぞみたいな特大ピンチの到来でございます。
井伊「殿ぉーー!! 一刻も早く出陣してください!!」
本多「でなけりゃ豊臣系の大名たちは、仲間割れを起こすか、東軍を離れていきます!!」
直政と忠勝から届く悲痛な叫び。現場にいる彼らからすれば、たまったもんじゃありません。
報告を受けた家康は、
家康「こうなったら……いっちょやってみっか……」
清洲城に使者を送り、一つの"賭け"に出ることにします。
福島「おい、使者さんよ……家康さんはなぜ出陣しねーんだ?(怒)……(怒)」
使者「それはっすね………おのおのの手出しなく候ゆえ御出馬なく候、手出しさへあらば急速御出馬にて候はん」
福島「!!」
井伊「な………」
井伊・本多「(なにを言ってんだキミは!!!)」
使者が伝えたのは…
家康「いや、あんたらが何もしねーから出陣しないのよ(なんで戦わねーの?)。そちらさんがやる気出してくれたら、こっちもソッコーで出陣しますけどね」
という、家康からの完全なる挑発です。
福島「おい」
井伊・本多「(ま……)」
福島「(使者に近づき)」
井伊・本多「(マズい!!!)」
福島「…………ごもっともだな。よっしゃ!! すぐにでも出陣して三成側の軍勢をぶったおし、家康さんに勝利の報告をしてやろうじゃねぇーか!!!」
東軍の豊臣系「やってやらぁぁぁーーーー!!!!」
井伊「………すごくいい風に」
本多「転んだ……」
家康のせいで怒ってる福島たちに、「いやそっちのせいじゃん」だなんて、こんなに美しい逆ギレはありません。
ただ……
自分が動けないことを相手のせいにしちゃうという、原因すり替えテクニック。
なおかつ、豊臣系武将を味方として動かすためのワードセンス。
さらには、結果的に出陣までさせたマインドコントロール術……もうメンタリストIeyaSuです。
そして、賭けにも勝ったギャンブラー家康。こっからビュンビュンと追い風が吹き始めるんですね。
歴史的逆ギレでやる気に火がついた豊臣系東軍メンバーの進撃が、
ハンパじゃない。
美濃(岐阜県)に入って西軍メンバーと戦うんですが、さすが戦闘タイプというだけあって、強ぇーのなんの。
またたくまに、西軍にとって大切な城、岐阜城を落としてしまうんです(岐阜城をまもっていたのは織田秀信。あの三法師ちゃん)。
追い風の風速がとんでもありません。福島たちが完全に味方になり、岐阜城を一瞬で落とすというこの強さ。
家康は「キタコレ!!」ってな喜びが止まりません。もう嬉しくて嬉しくて………
でも、待てよ……
家康「強いのはいいけど、強すぎる……ね。このままいけば、オレと秀忠抜きで西軍を倒してしまうってことも………ダメダメダメダメダメ!!!」
風、強すぎた。
あせった家康は「オレと秀忠が到着するまで待ってて!」と、東軍のみんなにクギをさし、ついに江戸城を飛び出したのでした。
小田原、三島、岡崎、清州。東海道を西に向けて進む家康。
進軍の大きな音ともに、一大決戦に向けてのカウントダウンが始まります。
———とうとうこの時がきましたね、父上。
———秀忠、天下を揺るがすこたびの戦。初陣とて後れをとることは許されぬぞ。
———ご安心ください。この秀忠、必ずや三成の首をあげてご覧にいれます。
———フッ……こやつめ、言うようになったわい。で、秀忠……
お前いまどこいんの?
秀忠が来ません。
妄想したくなるほど息子が姿を現さない。
家康はもう愛知。岐阜はすぐそこ。え、マジでなにやってんの……秀忠はいったい……
秀忠「いそげぇぇぇーーーーーーー!!!!」
向かってはいたみたい。
実は秀忠、現代でも知名度高めな真田昌幸・信繁(幸村)親子のこもる上田城(長野県)を落とそうとして……たかだか2、3000の真田軍に手こずりまくり。
信濃でストップをくらってたんです。
しかし、家康が江戸城出発を決めたとき、「美濃に向え!」という手紙は出していたんです。
が、その手紙を持った使者が、大雨による川の増水で秀忠の元になかなかたどりつけないというアンラッキーっぷり。
結局、かなりの遅延で手紙は届き……
榊原康政(徳川四天王)「家康様はなんと!?」
秀忠「……み、美濃に……向えと……」
本多正信(家臣)「美ぃ濃ぉに!!?」
秀忠「美ぃ濃ぉに!! ここは!?」
康政「信濃!!」
正信「家康様はいつ江戸をお発ちに!?」
秀忠「9月1日!! いまは!?」
康政「9月9日!!」
正信「詰んだ……あちらはもうかなり美濃に近いはず……それをこっちは今から出発……」
康政「ここから美濃までの狭く険しい山道を、3万8000の兵が移動するとなれば…到着までいったい何日かかるか!!」
秀忠「お、落ち着け!! いや落ち着くな!! いそげぇぇぇーーーーーーー!!!!」
という感じで、絶賛大遅刻中だったのでした。
ただ、テンパってるのは家康も同じこと。
おいしいチョコレートパフェが届かないかもしれない。
家康「どぉする!!? 秀忠待つ!? 待たない!?」
井伊直政「機は熟しております! 即時開戦なさるべきです! 決戦の日をダラダラと引き延ばせば、東軍メンバーのモチベーションは下がっていく一方! それに加え、毛利輝元が大坂城から秀頼様を引っ張り出してくれば、東軍の豊臣系武将は戦闘を止めるでしょう! そのまま西軍に寝返ることも十分考えられます!」
本多忠勝「いえ! 秀忠様のご到着を待つべきです! 徳川の主力部隊なしで戦えば、豊臣系武将に頼らざるをえない。それではたとえ戦に勝ったとしても、徳川の勝ちとはなりません! 彼らの活躍は、のちの勢力拡大につながります! そうなれば、また新たな敵を生み出すやもしれません!」
家康「どっちの意見もわかる! よし、決めた!!」
またもやの大ピンチをむかえた家康。
はたして、家康がくだした決断とは。
次回、「秀忠なしで戦うことにしました!」
で、お楽しみください。
人生を決めたのはたった数時間の出来事
『関ヶ原の戦い』最後のパート。
じゃ、おさらいです。
三成の挙兵を知って、Uターンする家康たち。
↓
東軍 VS 西軍、ですね。
↓
でも、豊臣系大名を信用できない家康は江戸城にひきこもり。
↓
福島たちは「なんで動かねーんだ!」とゲキギレ。
↓
しかし、家康の挑発で、西軍に連勝する快進撃。
↓
「いい感じだ!」と思ってたら、秀忠がこない……
家康「もういい!! 来ねぇーもんは来ねぇーわ!! これ以上待って秀頼くん出てきたらえらいことになるし、美濃に入って西軍と戦う!」
家康パパは、秀忠を待たず決戦の地に向かうことを決めます。
うすうすお気づきでしょうが、秀忠は『関ヶ原の戦い』に
間に合ってません。
徳川の運命を決める大事な大事な戦いに、息子が、主力部隊が、参加できてないんです。
ちなみに、戦いが終わった数日後、秀忠が家康に謝ろうとすると……
家康家臣「ご気分が優れないとのことで……お会いになるのは難しいかと……」
秀忠「………キレてんじゃん」
面会謝絶。
時間を守れないような悪い子は、パパもう知りません状態です。
現代でも、秀忠といえば「関ヶ原遅刻ムスコ」の印象がメチャ強。だから、どこかちょっとポンコツなイメージがあるというか…。将軍としての知名度も、父・家康、息子・家光(3代目)に負けてる感があります。
でも、最近じゃ秀忠さんの評価は爆上がりです。実は、徳川幕府が260年以上続く長期政権になったのはこの人のおかげだと。幕府を盤石にしたのは秀忠の功績が大きい。という感じで。
だからホントはすごい人なんですが、その話はまた別の機会に。
それでは、ガバッ! とはしょりまして、ストーリーの続きをこの日付から再開してみましょう。
慶長5年9月15日(1600年10月21日)。
美濃国関ヶ原。
この地を決戦の場と定めた、
東軍7万4000 VS 西軍8万以上
のスタンバイが完了し、『関ヶ原の戦い』が始まります(兵の数はとても諸説ありです)。
では、参加した大名や武将をズワーっと記しときます。あまりにも参加者が多いので全員は書けませんが、その一部です。
東軍 徳川家康、福島正則、藤堂高虎、松平忠吉、井伊直政、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、本多忠勝、池田輝政、浅野幸長、山内一豊、などなど。
西軍 石田三成、島左近、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継、小早川秀秋、毛利秀元、吉川広家、長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、などなど。
あれ、あの有名な武将はいなかったの? と思われた人もいるかもしれませんが、ここにあげたのはあくまで関ヶ原にいた人たち。この期間は日本の北や南でも、東軍 VS 西軍の戦いが繰り広げられていたんですね(伊達政宗や上杉景勝は東北、加藤清正や黒田官兵衛は九州とかね)。
それでも、そうそうたるメンバーが関ヶ原に集まりました。
深くたち込めた霧のせいで、なかなか動けなかった両軍。でも、まー、いつまでもじっとしてたってしょうがないかーって、動きます。
戦闘開始。
東軍「ワアアアァァーーーーーー!!!!!」
西軍「ウオオオォォーーーーーー!!!!!」
福島正則が西軍で1番デカい宇喜多秀家隊を攻撃すれば、
藤堂高虎たちは、大谷吉継の隊に攻めかかり、
東軍の多くの部隊が、石田三成隊に突撃します。
剣と槍が入り乱れ、あらゆる場所で飛び交う銃弾。凶器の乱舞に怒号やいななきがないまぜになったここは、
まさしく戦場。
三成「かかってこい東軍。この三成が相手してやる……フッフッフ……だがその前にな! うちの猛将、島左近を倒してみろ! 話はそこからだ!」
三成の言う島左近とは、
「治部少に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」
(治部少は三成のことです。「島左近と佐和山城、ありゃ三成にはもったいねぇよ」って意味ですね)
なんて言われる三成の重臣。
前日に起こった「杭瀬川の戦い」(『関ヶ原の戦い』の前哨戦と言われる)でも、見事な戦術で勝利を飾り、西軍全体のモチベーションを上げた、三成自慢の勇将です。
バーーーーーーーン!
島左近が撃たれます。
三成「島左近が撃たれます!!?」
黒田隊の鉄砲にやられた左近が戦線離脱。これで前方が崩れた三成隊のもとに、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明の隊がドッと押し寄せます。
見渡す限り全方位で、大混戦、大乱戦の関ヶ原。
三成「勝負はここからだ! のろし(ケムリモクモク)を合図に、南宮山の毛利隊、松尾山の小早川隊が動き出す手はずとなっている! 大軍を擁した毛利と小早川が動けば、われらの勝利は間違いない!」
三成のおっしゃる通り。
毛利隊と小早川隊の兵の数は、西軍の中で2番目、3番目に多いんです。ここが動き出せば、東軍はひとたまりもありません。正直、西軍が勝つと思います。
ただ、「動けば」ね。
三成「よし! のろしをあげろ!!」
モクモクモク……モクモクモク……
三成「………」
モクモクモクモクモクモクモク……
三成「……モクモクうるせーな! うるさくはないけど! なんだ? どうした!? なぜ毛利も小早川も動かない!!」
結論から言うと、"もう話はついてるんです"。
この戦いの起こる少し前、家康さんが江戸城にこもっていたのを覚えておいででしょうか。そこでせっせと、お手紙をしたためていたのを。
あのときの細かな指示や交渉がここできいてくるんですね。
家康の指示を受けた東軍メンバーの黒田長政なんかが、すでに毛利や小早川と話をつけてるんです。で、あちらからこんな約束をもらってるんです。
「戦いがはじまったら、東軍に協力しますね」。
戦いがはじまる前に、戦いは終わっていた……のかもしれません。
南宮山の毛利隊というのは、大坂城を守ってる毛利輝元の代わりにやってきた毛利の軍勢。
輝元のいとこで養子・毛利秀元
と、
輝元のいとこ・吉川広家
のことです。
東軍とナイショ話をしていたのは吉川広家の方。広家は、
「戦いがはじまったら軍勢を動かしません。そのかわり東軍が勝ったら、毛利家の領地を減らさず、そのままにしておいてください」
なんて約束を東軍メンバーと交わしていたんですね。
しかし、毛利秀元は広家がそんな約束をむすんでるなんて知るよしもありません。
毛利秀元「おい広家! なんで動かない! とっくにのろしは上がってんだぞ!」
吉川広家「いや、なんかさ、霧がうーっすらとさ……残ってんじゃん」
秀元「ぁー、そう言われてみれば……って言う、いとこだと思うなよ! このいとこが!」
広家「でもホント無理なのよー、これから兵士たちのお弁当の時間だから」
秀元「お、べ、……いま!? このタイミングで!? 兵士も『今ですか?』って言うぞそれ!! 早く行け! 先陣のお前が動かなきゃ、誰も動けないんだよ!」
広家のせいで、まわりにいた安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親が動けません。
長宗我部盛親「毛利さーん! 出陣しないんですかー!?」
秀元「あ、いや……その…………今兵士にお弁当食べさせてるんです!」
長宗我部「おべ……兵士も『今?』って言ってねーかそれ!?」
お弁当に時間をうばわれて、毛利動かず(「宰相殿の空弁当」っていう有名な逸話なんです)。
これで、安国寺、長束、長宗我部の部隊が動けず、どえらい数の兵士が戦いに不参加ということになります。
さらに、
三成「このままじゃマズい……彼らに動いてもらわなきゃオレたちは……終わる!!」
三成家臣「み、三成様! 小早川隊が、ま、松尾山をくだってます!」
三成「本当か!!」
三成家臣「山をくだって、大谷吉継さんを攻撃してます!」
三成「はい、終わったー」
やっぱり裏切った小早川隊。
松尾山の小早川隊を指揮するのは、豊臣秀吉の奥さん(ねね)のおいっ子。このときまだ19歳という若さの
小早川秀秋
です。
戦いの前から、アイツなんか怪しいんだよなー…と西軍メンバーから疑いの目を向けられていたという秀秋。みなさん納得の裏切りです。
が、ここですごいのが大谷吉継。8000とも1万以上とも言われる小早川隊に、わずか600の兵で対抗し、山を下りてきた彼らを2度3度山へ押し戻すという、鬼神のような活躍を見せていたんです。
孤軍奮闘する吉継。誰かがフォローに入ってくれれば、あるいは……だったのかもしれませんが、裏切りの連鎖は止まりません。
脇坂、朽木、小川、赤座という、こちらも寝返りの約束を交わしていた武将たちが、吉継めがけて、一斉に襲いかかってきたんです。
これにはさすがの吉継もキャパオーバー。悔しさをにじませながら力尽き、その場で自刃したのでした。
家康「よーし、今だ! かかれぇぇぇーーーー!!!!」
小早川の寝返りで一気に崩れ始めた西軍。家康はこのチャンスを逃すまいと徳川本隊を動かし、一気に総攻撃をしかけます。
小西隊、宇喜多隊が次々とぶっ潰れ、そしてついに
三成家臣「三成様! もうこれ以上は無理です! どうかお逃げください!!」
三成「…く……これまでか!!!」
石田隊も壊滅し、三成は戦場を離れていきます。
天下分け目の大決戦。いろんな人が「今度の戦は長引く」と予想した『関ヶ原の戦い』。
でしたが、なんとたったの6時間ほどで決着がつき、東軍の大勝利によってその幕を閉じたのでした。
……と、
ここまでお伝えした『関ヶ原の戦い』の当日の様子なんですが、ホントにホントに、
よくわかってません。
毛利さんや小早川さんが寝返ったとかは、お手紙のやり取りやその後の状況なんかで確定していることだと思うんですが、その場でのやり取り、そのほかのいろんな武将の動きはマジで謎です。
ここで紹介した流れや、有名なエピソードのほとんどが『関ヶ原の戦い』から50年、100年たったあとから出てきたものばかりなんですね。
ですので、いまのところわかってる当日の流れは、
「戦いが始まってすぐ、小早川秀秋が裏切りをかました。で、西軍は敗走した」
これだけです。
いままでは小早川さんがどっちにつくか迷っていて…という描かれ方をされてきた関ヶ原ですが、ソッコーで裏切ったっぽい(その可能性が高いって言われてます)。
だから決着のついた時間ももっと早く、2時間以内かも……なんて言われてるんです。
過去って変わっていくもんですね。
さて、長いこと『関ヶ原の戦い』に付き合っていただきましたが、いかがだったでしょうか。
すべてを網羅したわけじゃありませんが、それでも学べるポイントの多いこと。
そんな中、もし一つだけにしぼるとするなら
「正義の目的化ってどうなの?」
ってとこかなと思います。
今回の戦いで三成は「家康は間違ってる! 豊臣家のため味方になってください!」と、仲間を募りました。
一方家康は「仲間になってよー。領地あげるからさー」と言って仲間を集めてます。
一見「清潔な三成、腹黒い家康」みたいな印象を受けるかもしれませんが、相手のことを考えたのはどっち? となると家康の方ですよね。
三成さんの場合、みんなに協力してほしいとは言うものの「豊臣家のため、正義のために集合するのは当然だ」という感情が根本にあったでしょうから、特に相手のメリットを考えてたわけじゃありません。
それに対し家康さんは、考えも意見もバラバラの即席チームをまとめるためにプレゼントを用意してます。いつ裏切るわからない豊臣系大名をつなぎ止めておくためには、領地という具体的な報酬が必要だと考えたんですね。
その結果は、今回の話でご覧いただいた通りです。
正義を掲げ、誰かを否定すること"のみ"を目的としたチーム作りは、たぶんうまくいきません。なぜなら「正義」や「正しいこと」というのは、人によってバラバラだから。
誰もが自分なりの正義を持ってるからこそ、それをわかった上でのコミュニケーションが重要なんじゃないでしょうか。
三成に正義があったように、家康にも家康の正義があります。しかし家康は「自分にも相手にもそれぞれの正義がある」ということを前提の上で、次の段階の話し合いをしてるんですね。
相手の正義を探ろうとせず、ひとりよがりの正義を押し通そうとすれば、最後に待ってるのは破綻です。
以前、知人が
「"義"は存在するけど、"正義"はないと思う」
と言っていて、「たしかに!」と深く納得したことがあります。
誰もが自分の思う「正しさ」を持っているのは当然。ですが、ホントに正しいかどうかは時代や場面によって変化します。逆に、たとえ世間的に批判される"義"であったとしても、それが間違ってると立証することなんて、これまたできないはずですよね。
なので、自分と違う意見や生き方を頭ごなしに否定する。これだけは避けなきゃいけないことだと思います(個人的な意見でございました)。
最後に。
『関ヶ原の戦い』が終わったあと、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人は、西軍の首謀者として首を斬られることになります。
ホントにあったエピソードかどうかは大きく無視して……三成が首を斬られる直前のことです。のどがかわいた三成は、警護の人間に白湯をくれとお願いします。
警護の者は「白湯はない。柿ならあるからそれを食え」と言いますが、三成は「柿は痰の毒になる(お腹に悪い)」と言って断ります。
「これから首を斬られる者が毒を気にして何になる」
警護の者は笑います。が、三成は
「大義を抱く者は、首を斬られる瞬間まで命を惜しむものだ。それほど望みを叶えたいと願っているから」
と、言ったそうです。
三成は『関ヶ原の戦い』で負けました。しかし、彼の思いを否定することは、誰にもできません。
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