第五章 関ヶ原の戦い 〜ケンカのたえない豊臣家〜
・『本能寺の変』という大アクシデントで生命の危機にさらされるも、またもや九死に一生をえた家康。秀吉という新たなライバルとの戦いを終え、家臣になることを決意する。豊臣家の中で、関東をまもる大大名という地位にはつけたが——。
ついに天下統一をはたした秀吉さん。
そこから平和な日本をつくっていくのかと思いきや……
秀吉「次は明(みん。中国)をせめるぞー! まずは朝鮮からだー!」
と、まだ戦う気マンマン。
今度はアジアをせめるため、西日本の大名たちに出陣の命令を出すんです。
朝鮮にわたることになった武将たちは正直
「まだ戦わせんのかよ…」
という気持ちでいっぱい。
しかも、この”朝鮮出兵”が2回もあったもんだから、「ちょ、カンベンして…」というかなりサイアクな気分。
の、そんなとき、
秀吉が病気で死ぬんです。
「わーー! とりあえず朝鮮出兵は中止だ!」
「そうだな! それに『秀吉さまが死んだ』って発表したら、みんな動ようするから、少しの間ないしょにしておこう!」
「そうだな!」
みたいな会話がかわされ、豊臣家はドタバタ。
慶長3年8月(1598年9月)。
戦国の世を、おそろしいスピードでかけ抜けていった豊臣秀吉は、天下を手にしてから10年とたたずに、永いねむりについたんです。
でも……秀吉が死んだということは、これで家康の天下!
にはなりません。
「え、まだ!?」
となる気もちはとってもわかりますが、とりあえず、このときの家康のたちばを聞いてください。
ちょっと時間をまきもどして、秀吉が病気になっちゃったころの話です。
秀吉さん、さすがに体調をくずすと、お仕事できません。
だから、
「政治する元気ない……だ、だれかかわりに……」
といった感じだったんです。
秀吉には、むすこの秀頼(ひでより)くんてのがいたんですけど、まだお子さまです。
パパが死んだときでさえたったの6さい。こいつぁ政治なんてムリです。
じゃあどうしたか?
秀吉は、5人の力がある大名と、5人の豊臣家臣に、政治のバトンをわたしたんですね。
そして、この人たちは、
『五大老(ごたいろう)』(大名)
『五奉行(ごぶぎょう)』(家臣)
とよばれ、10人で話しあいをして、秀吉のかわりに政治を動かしていったんです。
では、そのメンバーをしょうかいしておきましょう。
『五大老』→ 徳川家康、前田利家(まえだとしいえ)、毛利輝元(もうりてるもと)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)。
『五奉行』→ 石田三成(いしだみつなり)、浅野長政(あさのながまさ)、増田長盛(ましたながもり)、前田玄以(まえだげんい)、長束正家(なつかまさいえ)。
見てもらったとおり、家康はガッツリメンバーに入ってます。
しかも、五大老の中で、領地の大きさ、実力、ともにナンバー1の大名が、家康さん。
秀吉も死ぬちょくぜん、
秀吉「く、くれぐれも、ひ、秀頼のことをたのみます。ひ、ひ、ふー…秀頼が大人になるまでは、い、家康さんが中心となって、政治をやってください」
家康「オッケーです。秀吉さまからいただいたご恩をかえすためにも、オッケーです」
て感じで(もうちょい重めのやりとりで)、家康のことをたよってるんです。
というわけで、豊臣家の中心メンバーになってる家康は、
「よし! 豊臣たおすぞ!」
ってのが、むずかしいたちばだったんですね。
というか、そもそもこのときの家康は、天下をねらっていたんでしょうか……?
このときすでにねらってたのか、もうちょっとあとで
「あれ? 天下ねらえんじゃね?」
と思ったのか。
こればっかりは、家康さんに聞いてみないとわかりません。
だけど、みなさん。
信長が死んだあとの秀吉をおぼえていますか?
まだ織田家の家臣なのに、まるで自分が天下人になったかのような、あの感じ。
"歴史はくりかえされる"って言葉があるように、このときの家康もそんな感じになるんですよ。
まだ豊臣家の家臣なのに、まるで天下人のようにふるまっていくんです。
家康がなにをやったかというと……
秀吉の作ったルールをやぶっちゃったんですね。
秀吉が生きてるときに、
「大名家どうしが勝手にけっこんするのキンシ!」
という、ルールを作ったんですが、これをビリッビリにやぶって、自分の子どもと、ほかの大名の子どもをバンバンけっこんさせるんです。
これ、
「秀吉死んだー! やっとオレの時代だー!」
って感じですよね。
「一学期終わったー! やっと夏休みだー!」
とにてます(にてません)。
そして、またまた思い出してください。
秀吉が天下をねらいにいったら、織田信雄がおこりましたよね。
このときもとうぜん、おこる人が出てきたんですが、
四大老・五奉行「ちょっと家康さん! そりゃダメでしょ!!」
なんと、おこったのは、家康以外の『五大老』『五奉行』ぜんいん。
やっぱり、みんな心のどこかで思ってたんです。
「あれだけ大きな力をもった家康のことだ。勝手なことをやって、いつ豊臣をうらぎってもおかしくねぇ……!」
って。
そして、その中でも家康のことをまったく信用せず、かなりブチギレていたのが、秀吉と豊臣家への愛がハンパない、
五奉行・石田三成(いしだみつなり)
という武将です。
石田三成「家康さん! 秀頼さまが大人になるまでは、みんなの話し合いで物事を決めていくということになっている! それをムシして、勝手なことはやめていただきたい!!」
なんだか正しいことを言ってますよね三成さん。
たしかに秀吉は政治のリーダーを家康にまかせましたが、1人だけ勝手なことをやれとは言ってない。
秀頼が大きなるまでのピンチヒッターをお願いしただけなんですから。
すごく良いことを言う三成に対し、まわりのみんなはこう言います。
加藤清正「ガッタガタうるそせーぞ三成!! 家康さんにブーブー言ってんじゃねー!!!」
あれ?
キレられてる……。
加藤清正(かとうきよまさ)、福島正則(ふくしままさのり)、黒田長政(くろだながまさ)と、あとなん名かの武将たちは、正しいこと言ってるはずの三成にとにかくキレて、家康の味方につくんですよ。
いったいなぜに?
こたえはかんたんです。
この人たち三成のことが、
大っ……………………………キライだったから。
武将も人間ですからね、そりゃキライなやつもいます。
それに、加藤さんたちには、三成のことをキライになる理由があったんです。
加藤、福島、黒田たちは、
「武断派(ぶだんは)」
っていう、戦いに出て活やくするグループの武将。
いっぽう、三成は、
「文治派(ぶんちは)」
っていう、国内の仕事(お金の計算をしたり、さいばんやったり、などなど)をするグループの武将。
そもそも、この「武断派」と「文治派」が、メーチャクチャ仲悪いんです。
秀吉が天下を統一すると、
「これからは、戦いより政治だ!」
ってことで、文治派が豊臣家の中心となっていったんですが、そのことにたいして武断派のふまんがばくはつ。
武断派「なんで文治派がデカい顔してんだ! いまの豊臣家があるのは、オレたちが戦をがんばったからだろ!」
と、文治派のことをキラっていくんですね。
その中でも、とくにキラわれていたのが、キラわれ王子・石田三成。
まず、秀吉のよこにベッタリとくっついていた三成のたいどが気にくわない。
そんなに戦に出て戦うわけじゃないのに、秀吉へのほうこく係ってだけで、えらそうにしやがる。
それに、そのほうこくもちゃんとしたもんじゃない。
朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)のとき、戦ってる部隊にちょっとでもおかしなところがあると、
「あいつらやる気ないですよ」
なんてほうこくを秀吉にするんです。
「それはちがいます!」
と理由を言おうとしても、三成を信用してる秀吉から「だまれぇー!」とおこられるのは武断派。
イミわかんねぇ…。
なんでオレたちがしかられるんだ…?
そして三成は、戦いもしないくせに、なんであんなにえらそうなんだ……?
キライダ…。
キライダヨミツナリ。
ダイッ…キライダミツナリ。
「ふざけんじゃねぇぞ三成ぃぃぃーーーー!!!!」
という感じで、三成はちょうキラわれていたんです。
そして、だからこそ武断派は、三成の敵である家康と仲よくなっていった……
と、こんな感じで、豊臣さん家はかなりゴタゴタしていたのでした。
しかし、この豊臣家の仲間われ。
家康にとってはどうでしょう?
三成たちがもめればもめるほど、豊臣家の力は弱くなって、家康の天下が近くなるわけだから……
家康「もっとケンカしろぉー! やれやれー! やっちゃいなよー!」
そう、家康にとっては、豊臣家のもめごとは大かんげい。
1人だけ、三成たちのケンカをおうえんする、ハッピーおじさんになっていたんです。
ところが、
武断派と文治派のもめごとは、家康がのぞむようなバッチバチのガッチガチのケンカにはなりません。
なぜなら、2つのグループのあいだに入って、
「やめろ!」
としかる、おじさま(おじいさま?)がいたからなんですね。
それが、五大老の1人
前田利家(まえだとしいえ)
です。
秀吉のむかしからの友人で、家康にたいこうできるほどの実力者。
いまの石川県に、「加賀百万石(かがひゃくまんごく)」といわれるすんごい王国のきそを作った、メチャすご大名です。
この利家が、三成たちを
前田利家「ケンカすんな! お前らがもめれば、家康の思うつぼだ! このままじゃ豊臣家は家康にのっとられてしまうぞ! だからケンカすんな!」
と、バッチリ止めていたから、大きな争いにはなりません。
さらに、家康も利家に
「秀吉さんが作ったルールをやぶってごめんね。もうしないよ」
と、あやまってるくらいですから、利家がいるかぎり、豊臣家に大きな争いはおこりません。
この人がいれば、豊臣の平和はずっとつづ………いたのかもしれませんが、
死んじゃいます。
そう、この利家さん、秀吉がなくなった次の年に、なくなってしまうんですよ。
こうなると、もぉーーとまりません。
加藤清正「やるか……」
黒田長政「ああ……」
ブレーキ役がいなくなったとたん、加藤、福島、黒田をはじめとした7人の武将は、なんと、三成を暗殺しようとするんです。
福島正則「出てこい石田ぁぁぁーーーーーーー!!!!!」
三成「ウソでしょぉぉぉーーーーーーー!!!!」
石田三成大ピンチ。
三成は、お家を出て、ほかの大名にかくまってもらい、そこからさらに、伏見城(ふしみじょう。京都府)にある自分の屋しきへとにげこみます。
しかし、清正たち武断派は三成をのがしません。
追いかけて追いかけて、
三成「もう、かんべん!!」
かれのお屋しきを取りかこみ、
長政「三成ぃぃぃーーーーー!!!
ついにその命を……!
清正「かくごぉぉぉーーーーー!!!!」
っていうところで、
清正「え、ちょ、ちょっと……!」
暗殺はストップ。
清正「どーーいうことですか!!」
なんと……
清正「三成をこっちにわたしてください! ……家康さん!!」
家康「やだよー」
家康が、三成をまもるんです。
三成を引きわたせという清正たちのお願いをおもいっきりキョヒる家康。
武断派からすれば、まったく意味がわかりません。
味方のはずの家康が、なんで三成を!? 知らないうちに三成と仲よくなったの? それともただのやさしさ?
「?」だらけの武断派ですが、家康は、三成と仲よくなったわけでも、やさしくしてあげたわけでもありません。
家康が三成をたすけた理由はこれ。
家康「(三成は、豊臣家のケンカのげんいんだ。三成が死ねば、豊臣家のケンカはおわる。まだまだもめて、豊臣の力を弱くしてもらうためにも、三成には生きていてもらわなきゃな)」
とまあ、もっと豊臣に弱ってもらうために、三成をたすけたんですね(なんて言われてます)。
このへん見事なタヌキじじいです(年をとってずるがしこくなった人のこと。家康さんのあだなでもあるよ)。
ただ、死んでもらうとこまるけど、近くにいるとうっとおしいので……
家康「暗殺はダメー。しかし、今回のそうどうのせきにんは三成くんにもある。だから、自分のお城の佐和山城(さわやまじょう。滋賀県)に帰って、反省してなさい。清正くんたちも、これでいいね?」
三成&清正「………わっ…かりましたー……」
三成を遠くに追っぱらうんです。
すると、まわりからは、
「暗殺をとめて、三成にもちゃんとしたバツを! 家康さんは中立だ! さすがだよ!」
という声が上がり、家康のひょうばんは急上しょう。
もう、家康の計算が、バチン! バチン! とはまっていった感じです。
このころ、秀吉がたてた伏見城(京都府)や大坂城(大阪府)でお仕事をするようになった家康は、天下へのかいだんをゆっくりと、でも、
かくじつにのぼっていくのでした。
つづく。
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