ヤコブ書1-4章:主は純潔と貞節を喜ばれる〔質問を尋ねる①〕
前回の記事まで、モルモン書の最初の著者であったニーファイの記録から学んできました。今日からはニーファイの弟であったヤコブの記録であるヤコブ書から学びます。
ヤコブ書を学び始めるとまず冒頭で、ヤコブは兄ニーファイから受け継いだ記録を書き記すという自分の受けた務めについて説明しています。ニーファイからヤコブが受け継いだ記録(ニーファイの小版)には、いくつかのルールがありました。
これらヤコブ書の冒頭部分からわかるニーファイの小版の記録ルールは以下のようにまとめることができます。
いちばん貴いと思うわずかなこと、特に神聖な説教や重要な啓示や預言の要点を刻む
民の歴史については少ししか書き記さない(版にもっと重要なことを記すための余白を残すため)
そのようにして最も大切で神聖な事柄を、できるだけ多く書き記す
ヤコブは限られた版の余白を、できる限り神聖なことで埋めることができるよう、記録する内容を厳選したと思われます。ヤコブ書は7章と、ニーファイの記録に比べると明らかに少ないものですがそこに記されている内容は主やヤコブ自身が後世に残されるべき重要な真理と教えを含んでいると考えていたものだったはずです。
そのような前提でヤコブ書を学ぶことで、単に読むよりも違った学習経験ができるでしょう。
このように始めた今週の個人的な聖文学習で、特に心に留まったことは次の言葉です。
これはヤコブが既婚者の男性に向けて語っている言葉であるため日本語では「貞節」という言葉で翻訳されています。「貞節」とは結婚した伴侶のほかに肉体や心をゆるさないこと、操を守ることを意味する言葉です。モルモン書の英語原文では、"chastity"とあります。これは性的な清さを意味しており、結婚前の純潔もその意味に含まれます。
ヤコブ書を読んでみると、当時のニーファイ人のある男性たちは、結婚後に伴侶に誠実ではなかったことをヤコブによって責められています(ヤコブ2:23-33参照)。
この結婚前の純潔と結婚後の貞節を守ることはわたしが生まれ育ったクリスチャンの家庭においても教えられてきた価値観ですが、わたしが実際に生きてきた世界の価値観とのギャップを大きく感じてきた教えでもあります。現在、父親になって妻と協力して子供たちを教え育てるにあたって、このトピックについて信じている教えと世の中で一般的に信じられていることの差はますます広がるばかりだと感じています。
ある人たちにとっては(もしかしたら多くの人にとって)、結婚前の純潔と結婚後の貞節、性的な清さを守ることは古臭い価値観のように映っているかもしれません。正直に言えばわたし自身も、この世間の価値観とのギャップには少なくない葛藤を感じてきましたし、特に若い時代には、(わたし自身もクリスチャンの家庭に生まれ育ったにもかかわらず)このクリスチャンの信じる「純潔」という価値観が一体何なのかよく理解できていませんでした。
現在のわたしにとっては、親として子供たちに教えていくにあたり決して避けて通れないテーマです。そのため、今週のヤコブ書の学習の中でこのトピックについて「親」としての視点から、「純潔」というクリスチャンの価値観について改めて学んでみたいと思いました。
この時点で、わたしの思いに浮かんできた質問は次のようなものでした。
ヤコブが限られた余白を埋める「いちばん貴いと思うわずかなこと」に「純潔と貞節を守る」という教えを含んだのはなぜだろう?
聖書やモルモン書の中で、性的な清さについてどのように教えてこられたのだろう?
現代で子供を育てる親として、性について子供たちに何を教えればよいのだろう?
わたしがこれまでの人生で「性」というものの力強さを最も感じたのは3人の子供たちの出産に立ち会った経験です。そのすべてが劇的に感動的なものでした。子供を産むために痛みに耐え、男性では決して成し遂げることができない偉業を達成した妻の姿と、出産を終えた後に抱きかかえた子供たちの輝きは、わたしがこれまで経験してきた中で最も神聖で心に訴えかける喜びに満たされる光景でした。
この経験を振り返るだけで、「性」というものが持つ特別で神聖な目的と、その力強さを言葉以上に理解することができます。今のわたしは「性」というものが「愛」「命」「家族」という3つのものに深く結びついたものであることが理解できます。これら3つのものは、わたしにとって最も神聖で人生を意義深いものにしてくれるものです。
自分に与えられた経験からの理解だけでなく、主が聖書やモルモン書の中で、この神聖で尊いトピックについて、どのように扱い、教えて来られたのかを調べてみたいと思います。そうすることで、経験によってだけでなく、知識と理解によって頭と心で本当に大切なことを自分のものにしていきたいと思います。
まずはじめに旧約聖書の中で、この純潔の律法がどのように教えられているかを見てみます。すぐに思い浮かぶのはモーセの十戒の7番目の戒めです。
「姦淫」とは道義に外れた肉体関係を持つことです。イエス様は新約聖書に記録されている「山上の垂訓」として知られている一連の教えの一部として、この戒めに触れて次のように説かれました。
イエス様は性的な清さについての戒めの適用範囲を、モーセの律法で直接的に言及されている、外に現れる行為にとどまらず心の中にまで広げて教えることで本来の意図するところを明確にされました。
聖書の中の教えを見渡しても直接的に「結婚前の性的な関係をもってはならない」と教えている言葉はほとんど見当たらないため、もしかしたらクリスチャンであってもこの性に関する神様の標準を誤解していたり、あやふやにして正当化している人もいるかもしれません。モルモン書のいくつかの箇所では、明確に純潔と貞節を清く保つことについて教えられています。この記事で紹介したヤコブ書のほかに例えば…
とあります。聖書のほかにモルモン書という聖典を主が用意された理由の一つは、これです。すなわち、モルモン書は聖書の教えを支え、その意味するところを誤解のないように明確にして証するもう一つの「証人」となります。
しかし、聖書の中にすでに記録されている教えからも、もう少し調べて理解を深めることを試みてみたいと思います。
実際にはよくよく調べてみると、この純潔を尊ぶという神様の標準は、人の歴史の最初から与えられていたものであることが示唆されています。
聖書の一番最初に記されていることは「天地創造」です。創世記の冒頭では神様がご自身の形にかたどられた神様の子供たちのために天地のあらゆるものを創造され、人にこの地上での経験を与えられたことが記されています。
この地上に最初に置かれた男女はアダムとエバで、彼らは神様が定められた「夫婦」でした。聖書を学ぶと彼らに最初に与えられた戒めが「子供をもうけ家族を築く」ことに関連したものだったことがわかります。
さらに次のようにあります。
これら最初の人に与えられた神様の戒めは、子供をもうけ家族を築くということが神様にとっても人にとっても貴い神聖な事柄であり、そのために人に与えられた生殖の力は正しく結婚した「夫と妻」という関係の中で、さらには肉体的・情緒的・霊的・精神的に「結び合い、一体となる」ということを目指す特定の関係性の中でのみ用いるように定められていたということがわかります。
また、ここまで改めて学ぶ中で、情欲に打ち勝ち人の命をもたらすという神聖な力を尊ぶことの大切さについて教えている代表的な旧約聖書の2つの物語を思い出しました。
ひとつは創世記にあるエジプトのヨセフの物語と、もうひとつはサムエル記にあるイスラエルの偉大な王ダビデの失敗の物語です。
この記事ではこれらの物語について詳しくは触れませんが、ヨセフとダビデの違いを強調するために一部を引用します。
ヨセフはエジプトへ奴隷として売られていった先で主人の妻から誘惑を受けます。
ヨセフは、結婚という神聖な関係性の外で結ぶ性的な関係が、自分の主人に対してだけでなく、神様に対して罪を犯すことであると理解していました。そして、彼はその理解に完全に一致した行動を選びました。彼は誘惑に自分がさらされるような環境から、できる限り自分を遠ざけました。
それとは対照的だったのがダビデ王でした。
ヨセフが誘惑を受けやすい環境から距離を取っており、いよいよ誘惑が強く迫って来た時には「のがれ出た」(創世39:12)のに対して、ダビデは受けた誘惑と戯れ、結局それが罪と知りながら行動に移してしまいます。
このことは、のちにイエス様が山上の垂訓で教えられた通り、人はその行動だけでなく、心の思いを選ぶことの大切さを表している物語でもあります。
以上の聖書とモルモン書の聖句やそのほかの関連聖句を改めて学ぶことで、また自分自身の人生における経験と実感を思い起こすことで、イエス様が教えておられる性に関する標準を、個人的に次のように理解することができました。
子供をもうけ、家族を築くことに携わるためにわたしたちに備わっている生殖の力は非常に大切で貴いものである。
この生殖の力は、結婚した夫婦の間においてのみ用いるように神様によって定められている。
生殖の力は、子供をもうけることのみを目的としているのではなく、夫婦が互い補い合い、身体的・霊的・情緒的・精神的にひとつとなるべきことの神聖な象徴であり、そのために欠かすことのできない愛の表現方法の一側面である。
結婚という契約関係は度々聖典の中で、神様とわたしたちとの聖約関係の象徴としてもちいられている。結婚した男女の間でのみ保つべき純潔と貞節は、わたしたちが神様との聖約関係において自らを心から神様とその目的にささげ奉献するように、夫婦は互いに対して自らを心からささげ奉献することで真の一致と喜びに達することができることを教えている。
「愛」「命」「家族」という最も神聖な賜物を傷つけるために、敵対する者は度々わたしたちの純潔と貞節を軽んじるように誘惑する。
しかし、わたしたちは自らの選びによってそれらの誘惑に打ち勝ち、神様と伴侶への忠誠と献身、愛を表すことができる。
ここまで教義的な側面を改めて学んできた上で、次の質問が思いに浮かんできました。
子供に性について、いつから、どのように教えていけば良いのだろう?
わたし自身のこれまでの親としての実践はどうだっただろう?もっと今から改善できることは何だろう?
この「純潔を尊ぶ」というトピックは現代を生きる一人の人として、また子供を教え育てる親として、決して避けて通ることのできないものです。
次の記事では、わたし自身がこの質問に導かれて子供たちに教えることについてさらに深く学び反省していくプロセスを紹介します。これが読者である皆さんにとっても自ら学び省みる上で助けになることを祈っています。
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